2012年02月01日

料理本のソムリエ [vol.37]

【 vol.37 】

カレーとボルシチと中華饅頭が
ひとつの店に同居するわけ

 前回、“ひょんなことから相馬家の食客になった…”と思いっきりはしょらせてもらった、インド独立運動家のラス・ビハリ・ボースと新宿中村屋の縁。実はこの“ひょん”の部分を細かく掘り下げると本が1冊できてしまいます。ホントの話でして、白水社刊の『中村屋のボース』がそれです。日本政府に利用されつつもいかに独立のため戦い続けたか…彼の姿を軸に、戦前の日本におけるインド独立運動をまとめた新進研究者の力作です。

 インド総督の爆殺や独立蜂起を計画した若き日のボースは、イギリス植民地政府に追われる身。大正3(1914)年に日本に渡りますが、当時イギリスと同盟を結んでいた日本政府は国外退去命令を出します。オウムの平田君風情とは比べものにならない重要人物を、大国の顔色をうかがう政府の手から守り、民族独立という大義に賛同してかくまう。そんな気骨あるパン屋が中村屋の相馬愛蔵・黒光夫婦でして、当時の人たちからも喝采を浴びました。この本にはサスペンスドラマよろしく、右翼の大物の頭山満宅に居たボースを捕らえようとする警察からの脱出劇や、相馬家での潜伏生活に関する考察もあります。

 明治大正時代のインドは、お釈迦様の国として日本人から今以上に親しみと尊敬を向けられており、右翼も社会主義者もその独立を支援する空気がありました。たとえばvol34でちょっと触れた禄亭こと大石誠之助は、明治23(1890)年に渡米してオレゴン大とモントリオール大で学んだ医学者でして、のちにシンガポールとボンペイに渡り、熱帯の風土病を研究しています。そんな彼が社会主義に関心をもったのは、インド時代に見たイギリスの植民地経営に対する義憤から。ちなみに大石はアメリカ留学中に苦学していて家政夫として働いた経験があり、インドからの帰国後には甥の西村伊作(御茶ノ水の文化学園の創立者ですね)とともにレストラン「太平洋食堂」を和歌山に開いたりもしております。妻が作る料理には満足いかずに自分で厨房に立ち、「カレーライスにウニと海苔をかけると至極結構です」と『家庭雑誌』で紹介した大石は、なかなかのグルメではないかとお見受けしております(試してみたらテレビのちょい足しなんぞよりもずっといけました)。なにせ禄亭という号は、都々逸の師匠の鶯亭金升から授かったものですが、この人がまた食いしん坊だからねえ…。

 おっと寄り道はこれくらいにしてボースをかくまった相馬夫妻についてでありますが、かなり変わった経歴の持ち主です。愛蔵は内村鑑三の薫陶を受け、長野で養蚕指導をしていた農村改革運動家。妻の黒光のほうはなんだか武将みたいな名前ですが、本名は“良”でして、“こっこう”は『女学雑誌』への寄稿でついたペンネームです。相馬黒光については多くの本が出版されており、聞き語りの回想録『黙移』は平凡社ライブラリーや日本図書センターの自伝シリーズにも入っていますが、彼女の個人史を通観するのであれば、宇佐美承氏の『新宿中村屋 相馬黒光』がよいでしょう。ただし400ページ以上もある厚いこの本の中で、ボースはごく一部に登場するにすぎません。なにしろ相馬黒光の一生は、朝の連続ドラマのモデルにしようものなら1年かけて放送しても終わらないほどエピソードがてんこ盛り。ハードな展開にお茶の間から「朝っぱらからこんな重い話は…」と非難囂々まちがいなしでしょう。

ninkinopan.jpg そもそも中村屋の始まりは本郷の東大正門前にあったパン屋さん。上野の東京芸大にもパンを納める(木炭画に必要ですからね)地元では知られた店でした。ところが元のオーナーの中村萬一氏が米相場で失敗して売りに出されます。それを明治34(1901)年に32歳の相馬愛蔵が購入し、屋号とともに引き継ぎました。東京専門学校(早稲田の前身)を卒業して札幌農学校で養蚕を学んだ愛蔵と、宮城女学校とフェリスを飛び出して明治女学校で学んだ黒光ですから、客商売は初めての経験です。それでも明治37(1904)年シュークリームをヒントにクリームパンとクリームワップル(なぜかワッフルではないんですねえ)を発明して大ヒットさせます。なお中村屋のクリームパンは丸くて、今のようなグローブみたいな形ではありませんでした。クリームは焼くと蒸気が出るので、空気抜きとして切れ目を入れていたのが、あの形に発展したそうです。

nakamuraya_1.jpg 相馬夫婦はパンがあまり売れない冬の売り上げを伸ばすために和菓子の分野にも乗り出すなど、型にとらわれないアイデアでぐんぐん店を大きくしていきます。明治42(1909)年には新宿に支店を開き、翌々年には今の場所に移って本店にします。新宿が今のような大繁華街になるはるか以前、街道沿いの土ぼこりっぽい町で、紀伊国屋書店さんがまだ炭屋だった時代にもかかわらず、当地の将来性を見抜いたのですからたいしたもの。新宿では彫刻家の荻原碌山や画家の中村彝にアトリエを貸したり(ボースが隠れたのもここでした)、店の2階をロシア文学研究会の会場として提供して、秋田雨雀や島村抱月などのいろいろな文化人と交流します。ちょっとvol12の「メイゾン鴻乃巣」を彷彿とさせますね。
 夢見勝ちでどこか風来坊の愛蔵と姉御肌で外交的な黒光のコンビは、多くの人たちと出会い、その経験をもとに、店で取り扱う商品をどんどん広げていきました。ちょっと見ただけではいろいろな国の食文化の寄せ集めのように思えますが、実はひとつひとつに濃厚なエピソードと必然性がついてまいります。

nakamuraya_2.jpg たとえば中華饅頭は、新宿に百貨店が進出してきてピンチに陥った相馬夫妻が、大陸視察旅行中にヒントを得て取り入れたもの。菓子職人を中国から呼び寄せようとしたところ、前例がなくて労働許可がおりなかったために、じゃあ料理店なら問題なかろうと、厨房も作って中国料理も提供し始めてしまいます。水羊羹の缶詰はブラジルに渡って夭折した息子のことを思って、日本の味を海外に届けられるように開発したものです。

roshiagashi.jpg 中村屋の喫茶部のメニューにはボルシチがありますが、これはボースの後に食客となったロシアの盲目詩人、エロシェンコから学んだもの。海外から船便で運んでいては提供できない生チョコレートを自社で製造すべく、破格の給料でロシア人の菓子職人も雇います。ついでにペチェーニエ(焼き菓子)やガドセック(ガトーセック?)といったロシア菓子も販売しており、これらがロシアクッキーやロシアケーキといったどこか懐かしい日本の洋菓子の源流となったもようです。なお現在新宿中村屋ではロシア菓子は販売しておりませんが、千葉の館山の中村屋さんで味わうことができます。新宿移転後の本郷店をまかされたのは、生え抜きの店員だった「みいどん」こと長束實氏。4畳半に住み込みの従業員、3畳間に相馬夫婦と息子が生活していた本郷時代に苦楽をともにしたスタッフの一人です。その息子の七郎氏の代に当地に移りまして、ロシア菓子の技術を今に伝えているのです。

 ちなみに山崎製パンや進々堂の初代社長も中村屋の出身。社員の独立は中村屋の社是でもあり、21歳までは月給の3分の2、27歳までは半分を資金として貯金する制度がありました。そのほか、従業員全員に自社株をもたせたり、売上高に応じて配当を出したリ、従業員のために学校を設立したり、亡くなった社員の慰霊祭を毎年行なったり(長束實氏もその一人)と、やることなすこと桁はずれ。“企業は人なり”をモットーに、廉価販売やリベートを許さなかった中村愛蔵の経営精神については、岩波書店の『一商人として』にまとめられており、『相馬愛蔵・黒光著作集2』にも収録されています。

 また実際に中村屋に勤めていたスタッフの回想としては、同社菓子部門だった関口保氏による『ピロシキとチョコレート』があります。この本は同じ話が何度もでてきたり、“前に書いたように”とあるのにどこにも見当たらなかったりと、本としての出来がよくないのが残念ですが(編集者出てこーい)、戦前の中村屋の空気を伝えてくれる貴重な証言です。前回のゴロナのエピソードもこの本に出てまいります。
 関口氏から見た愛蔵と黒光はなかなか厳しい人でもありましたが、いかにも明治男と明治女らしい感じですね。戦中は食材の調達に苦労したうえ、過労から娘婿のボースを亡くし、戦後も新宿駅前を占拠して闇市を開いていたやくざと法廷で争ったりと、苦労は続きますが、けっしてくじけず見事に会社を復活させてみせました。

 ところでボースの同志の一人にインドから京都大学へ留学していたA.M.ナイルがおります。彼は昭和3(1928)年に中村屋でボースに出会い、その人となりと行動力に感銘を受けます。卒業後は満州国に渡り、ラマ僧やイスラム教徒などに扮してモンゴルで対英工作活動を行ない、戦後は東京裁判のパール判事の通訳を務めたりもいたします。こちらは朝の連続ドラマどころか007の映画に登場しそう(あっ、でも敵役になっちゃう…)。ところがインド政府を牛耳る国民会議派からはうとまれ、帰国がかなったのは実に祖国独立の14年後。のちに彼は『知られざるインド独立闘争―A.M.ナイル回想録』で、文字通りインド独立運動に殉じたボースを正しく評価するよう訴えています。
moukaru_curry.jpg この革命志士が、日々の糧を得るためのよすがとして44歳のときに開いたのが銀座の「ナイルレストラン」です。目玉焼きも作れないA.M.ナイルをサポートして、今のような有名店に育てた2代目のG.M.ナイルは、テレビなどにもよく登場するのでご存じかもしれませんね。『ナイルさんのカレー天国!!』で面白おかしく描かれているように、自ら“変なインド人”を演じる、取材慣れしたタレント気取りの経営者という印象を持つ人も多いかも。

 こうした色眼鏡を吹き飛ばすのが、昨年出版された『銀座ナイルレストラン物語』です。インド料理専門店の先駆者であるG.M.ナイルの破天荒な性格と人生は、波乱万丈の初代にもなかなか負けておりません。初代にとっての料理店経営は意図せず迎えた第二の人生でしたが、2代目にとっては、戦後の混乱をたくましくのりきってきたわが家そのもの。学生時代から店に立ち、カレー粉を輸入し、インドから料理人を招聘するルートを開拓するなど、日本とインドの間に立って苦労してきたからこそ、彼は自信たっぷりでテレビカメラの前に立つことができたのです。ところが全力を注いできたこの店は、あろうことか平成9(1997)年に隣家の火事で焼けてしまいます。茫然自失の彼を尻目に、地上げを狙ってうごめくやくざたち。店舗存続の最大の危機が訪れ……おっとネタばれはこれくらいで。

 さまざまな商品展開を行なった中村屋と、たとえインドから料理人を招いてもひたすらカレー一本に絞ってきたナイルレストランとでは、商売の仕方がずいぶん違いますが、どちらも個性的でスケールの大きい経営者であることはまちがいない。「不況に強そうだから外食でもやってみるか」というデモシカ経営者や、ネットの世界に向かってつぶやくばかりの国士きどりたちは、まずは刺激たっぷりなカレーを食べて目を覚ましてくださいね。

  

  

  

 

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投稿者 webmaster : 12:47 | Permalink | カテゴリー:料理本のソムリエ

2012年01月24日

『毎日食べたい 食パン』

06133.jpg『毎日食べたい 食パン』
著者:柴田書店編
発行年月:2012年1月26日
判型:B5変 頁数:92頁
定価:1,890円(税込)

プロのレシピは一筋縄ではいかないのだ。

パン屋さんのプロセス撮影は朝早い。
そう覚悟して始めたものの、まさかここまで早いとは・・・。
♪あさいちばんはやいのは、ぱんやのおじさん♪
という歌詞は、本当だったんですね。


撮影開始 @ Kベーカリー、午前2:45。
朝・・・じゃなくて夜だ(真っ暗な空に星がきらきら)。

寝ぼけ眼でぼーっとつっ立っている我々撮影隊に、
すでにエンジン全開のKシェフが、てきぱきニコニコと段取りを説明。
説明中にもシェフの手や足が止まることはありません。
常に複数の作業を同時進行。
しかも、夕方までずっとこの調子。

シェフ達の頭の中には、一体いくつ部屋があるのでしょう。
50種類から多い店では100種類ものパンを日々焼くという仕事は、
並大抵のことではないのでした。
なんだか、社会科見学に来たみたい・・・。


ところでパン好きのみなさん、
本のレシピの分量・時間・温度はすべて撮影時に実際に計測した数値ですが、
シェフ達は毎日、同じことを単純に繰り返しているわけではございません。
同じパンでも、水の量は日々調節。
粉の配合も季節によって、材料の状態によって変えています。
生地の発酵時間も、様子を見ながら早く切り上げたり、のばしたり。
パンチや丸めの手加減も、感触から判断して強くしたり、そっと扱ったり。
オーブンに入れてからも、膨らんでくるタイミングや焼き色から判断して、
途中で温度や時間を微調整……とまぁ、何から何まで手加減が加わっており、
一筋縄ではいきません。

これこそ、何百回も同じパンを焼き続けている経験のなせるワザ。
それがプロであり、職人である所以です。
一朝一夕にできる仕事ではございません。

おまけに、早起き(!) 。
ついつい深夜までDVDを見ちゃったり飲んだくれたり、
なんていう自堕落な生活とは縁を切った、崇高な世界がそこにはあるのでした。


さて、掲載したパンの一部をちらりご紹介。


◆ 「アングレ」 カタネベーカリー

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さっくり心地よい歯ごたえは、山形パンの王道。
発酵バターといちごジャムの重ね塗りが、
シェフとマダムのおすすめの食べ方です。


◆「S100」 ダン ディゾン

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豆乳100%で仕込んだ動物性材料不使用の食パン。
ハードパン並みの力強い歯ごたえにびっくり。
野菜やきのこなどの惣菜と一緒に食べてみてください。


◆「コンルーバ」 トラスパレンテ

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国産小麦100%、二段仕込みのレーズンパン。
もちもちして味わい深い生地と香ばしい耳の対比が絶妙。
トーストしてあっさり煮上げたジャムをのせて。


◆「抹茶&大納言」 パナデリーア ティグレ

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抹茶ペーストと小豆を練りこんだリッチで甘い食パン。
トラ柄とほろほろの食感は、一度食べたら忘れられないインパクト。
カスタードソースを添えるとうるわしいデザートに。


最後に、微に入り細に入りの取材撮影に応じてくださったベーカリーの皆様、
本当にありがとうございました。

カタネベーカリー・片根シェフ/ダン ディゾン・木村シェフ
トーストネイバーフッドベイカリー・鈴木シェフ/トラスパレンテ・森シェフ
とらやベーカリー・森岡シェフ/ネモ・ベーカリー&カフェ・根本シェフ
パナデリーア ティグレ・望月シェフ
ブーランジェリー・エ・カフェ マンマーノ・毛利シェフ
ブーランジェリー&パティスリー カルヴァ・田中シェフ
ブーランジェリー パサージュ ア ニヴォ・大和シェフ  (店名五十音順)

日々の仕事だけでもてんてこまいなのに、厨房だって決して広くないのに、
こころよく受け入れてくださって本当に感謝しております。
この本をきっかけに、ひとりでも多くのお客さまが貴店を訪れ、
おいしいパンに出会いますように!


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投稿者 webmaster : 10:17 | Permalink | カテゴリー:製パン

2012年01月17日

料理本のソムリエ [ vol.36]

【 vol.36 】
恋と革命は、サラリとして辛口なもの

 あけましておめでとうございます…からずいぶん経ちましたね。
みなさん、おせちやカレーはお腹一杯召し上がりましたか? 年もあらたまったというのに当ブログは昨年の話の続きであります。

kiji.jpg 実は前回、国際こども図書館に所蔵されているカレー本であえて採り上げなかったものがありました。辛島昇先生の岩波ジュニア新書『インド・カレー紀行』です。この本、ジュニア向けなものですから国会図書館のほうでは所蔵しておりませんし、辛島っていう姓がなんだかペンネーム風だしで、「口当たりのよいやさしい内容だろう」となめてかかると痛い目にあいますよ。岩波ジュニア新書のシリーズは普通の岩波新書より字が大きくて写真がたんまり使われておりますが、時々とんでもないハードな内容のものもまじっておりまして、この本も、昨今の新書(タイトルが無駄に長かったり疑問形だったりするやつ)ですら読むのが億劫という子供舌の人にはお勧めできません。辛島教授は押しも押されもせぬインド史の第一人者でして、取り上げる資料はインドにとどまらず、『エリュトゥラー海案内記』だの『諸蕃志』だのギリシャや中国の文献までぽんぽん出てきます。とはいえ机の上の世界にとどまらず、インド留学時代の寮の食事やスリランカでの客員教授時代の見聞、料理の具体的なレシピなどを盛り込んでおり、読みやすさにも配慮されております。

 そもそもインドにはカレーっていう料理は存在しない、という話は皆さんどこかでお聞きおよびかと思います。本来は個別にちゃんと料理名がある各種インド料理を、ややこしくって面倒だとばかりに「カレー」で総称しちゃったんですね。大阪のおかんにとってゲーム機は、PS Vitaだろうとドリームキャストだろうと「ピコピコ」なのと同じ心理ですな。

 それではこの料理名は何からつけられたのか。本書にはそれに関する考証もあります。インドのスパイシーな汁たっぷりの料理をカリル(karil)と呼び始めたのはポルトガル人。その理由はインドではソースのことをカリーと呼んでいたため…とする説もありますが、南インドのタミル語やカンナダ語の辞書には“kari”は野菜、肉、コショウの意味とあって、ソースではないそうです。野菜と肉とコショウが同じ単語で表現されるとはいったいどういうこと?という疑問がわきますが、辛島教授はスープ料理の具をカリと呼んだのが、ポルトガル人に誤解されて料理名として伝わったのではないかという仮説を立てています。

 本書はこのように料理を通してインドの文化交流史を語る内容でして、ちょっとやそっとの辛さや知的刺激では物足りないカレーマニアも満足いく内容になっております。カレー屋さんにいくとシークカバブだのビリヤニだの、やけに中東料理に似た料理を見かけると思ったら、ペルシア文化の影響を受けたムガール帝国の遺産なのだとか。日本人の抱くインド像というのはステレオタイプなものですが、実は文化も料理も多彩かつ重層的で、一筋縄ではいきません。

 さて、そんな辛島先生もお勧めなのが、『インドカレー伝』。こちらはさらにインド料理と歴史との関わりに焦点を絞って考察したもので、翻訳書なので厚くて注もびっしり。辛島教授の本と比べて辛さ…じゃなかった難易度3倍ってとこでしょうか。ポルトガルやイギリスの植民地文化にまで考察を広げているのが特徴です。
bindaru.jpgカレーがイギリスに渡って小麦粉のルーでとろみをつけるシチューっぽい料理に変わったのと同じように、カツレツがインドではスパイシーにアレンジされたりと、相互に交流があったりします。酸っぱくて辛いのが特徴のビンダルーの原型は、ポルトガル料理のカルネ・デ・ヴィーニョ・エ・アリョスなんですねえ。どこのおかんのせいでこんなに短い名前になっちゃったんでしょう。

 ポルトガルの植民地文化の料理は、はるか昔の戦国時代に日本に伝わった可能性がありますが、この分野を扱った本はこれまで見あたらなかったので、干天の慈雨であります。大げさですって? いえいえ、こちとら大真面目です。たとえばスリランカにもポルトガルから伝わったテンプラードワという料理があると『南の島のカレーライス』にありました。これはポルトガル語の「味をつけた、調理した」という意味のテンペラードゥからきていて、油炒めのことだそうです。現在天ぷらの語源については諸説ありますが、これは実に興味深い報告です。あ、ちなみにこの本、カレーライスというタイトルではありますが、スリランカ料理全般について考察したものでありまして、ココナツやモルディブ・フィッシュ(スリランカの鰹節)を活用するこの国の料理はインドとはまた異なる体系をもっています。

 さて日本にインドのカレーを初めて紹介したとされるのが、ラス・ビハリ・ボースです。インド独立革命の志士だった彼は日本に逃れ、ひょんなことから新宿でパン屋の「中村屋」を開いていた相馬家の食客となります。のちに帰化して中村屋の娘と結婚したボースは、日本でカレーと呼ばれている食べ物は小麦粉でとろみがつけてあり、母国の料理とほど遠いことに不満をもちます。そこで中村屋が昭和2年に喫茶部を開くにあたって、名物料理としてボース発案のカレー(ただし呼び名はカリーです)を提供し始めたわけです。

nakamuraya.jpg 同店がカレーを売り出すにあたっての情熱と力の入れようは、半端なものではありません。具の鶏肉を調達するために専用の農場を開いて軍鶏を飼育し、米は別名“御殿米”と呼ばれた埼玉の“白目米”を使います。ちなみに例の「星岡茶寮」も朝鮮米の早丁租を用いるようになる前は、この白目米を使っていたそうです。
 戦前の中村屋のカレーのレシピについては、『カレーなる物語』に昭和7年の『主婦之友』に載ったものが紹介されていますが、ここではせっかくですから開業初期の昭和3年の『婦女界』のレシピをば。『主婦之友』では骨からスープをとったり、ジャガイモを炒めたりしていてこれとは若干違います。大量に仕込まねばならない店のレシピそのままではないでしょうが、多めの油にスパイスの香りを移すところがミソですね。ジャガイモでとろみをつけるのはインド本来のやり方かどうか…。小麦粉のルーに対抗しての措置かもしれません。

 鶏はメスの400匁(1500g)ぐらいのサイズで、屠鳥してから6時間くらいのものを使用します。皮ごと骨つきのまま1寸(3cm)くらいのぶつ切りに。タマネギ150匁(562・5g)は四割りにして、1分(3mm)の厚さに小口切りに、ジャガイモ200匁(750g)は皮をむいて2つに切っておきます。バターはたくさん使いまして、鶏に対して2割の80匁(300g)ほどです。鍋に溶かして、タマネギを入れてきつね色に色をつけ、鶏肉を入れて弱火でしばらく加熱します。少し骨ばなれがよくなったところでカレー粉を茶さじ3杯ほど、コショウ、塩を適当に入れ(もし牛乳かヨーグルトがあれば1合ほど入れます)、材料より2寸(6cm)ほど上まで湯を注ぎ、静かに煮ます(水を入れると肉が固くなります)。香料(月桂樹、丁子、肉桂)などがあれば、よく煎じてその汁を少し肉の中に入れます。弱火で1時間ほど煮ると骨ばなれのよい肉になりますから、この時にジャガイモを入れて、柔らかくなって少し形が崩れ、汁がどろりとしてきたら火からおろします。箸休めにはダイコン、キュウリ、トマト、キャベツなどの酢の物を添えます。

 なお原文では香料(香辛料)の説明で月桂樹とベイリーブスがだぶって登場しているうえ、煎じ方や使うタイミングがよくわかりません。カレー粉については、インドでは家族の口に合うように14種類を配合するが、日本の家庭で作って好まれるのはBC缶(C&B社)でしょう、とありますが、ちょっと加える量が少ないような気が…。
fukugen.jpg当時の茶さじは今でいう小さじにあたるのですが、それにしても…。高価だったせいなのでしょうか。逆にタマネギはもっと多くてもよいのでは? いろいろ疑問に思いつつ再現してみたところ、昨今のジャガイモは優秀なようでしてそう簡単に煮崩れてくれません。
どろりとするどころかスープカレーよりもスープっぽくなる始末。べ、べつにあんたに食べさせたくて作ったわけじゃないんだからね! このブログってなんか小難しいし、本の映像ばっかりじゃさみしいかなって思っただけなんだから!

 とつぜんツンデレ風でごまかしているのは、この印度式カリーのキャッチコピーが「恋と革命の味」だったもんで。中村家に訪問してボース手作りのカレーを実際に食べた子母澤寛の『味覚極楽』によると(『カレーなる物語』ではこれを回想として紹介していますが、それは単行本化の加筆部分のことでして、初出は当時の東京日日新聞の連載記事です。レシピも簡単に紹介していますが、これまた『婦女界』とも違います)、ボースは「本当のカレーはそんなにからいものではない、食べる時にすうーっと甘くて、後から少しずつ辛味が舌に沸いて来るのがいいのです」と語っております…って、しまったあ、これじゃあツンデレの逆じゃないかー。vol.11で触れたパウリスタのコーヒーといい、この時代の恋ってのはずいぶんと大人な味ですなあ。

567.jpg 一方甘ーい“初恋の味”で一世を風靡したのはカルピスでありますが、この会社が昭和7年から“567十八青春の味”のキャッチコピーで、満を持して売り出した飲み物がゴロナ(5+6+7で18歳ってわけ)です。「星岡茶寮」の納涼宴でも使われましたが、タンニンのオリがたまるために不良品が続出して持て余し、のちに原料や技術をそっくり中村屋にひきとってもらったというエピソードがあるそうです。技術移転を受けた中村屋ではジンをたらすことでオリの発生を防ぎ、喫茶部で提供したとか。ただゴロナって、今でいうガラナのことなんですけど、これってウソかホントか強壮効果があるともいいますよね。“青春の味”ってちょっとストレートすぎますけどよかったのかしら?

 ところで中村屋って、中華饅頭や水羊羹の店だとか思ってた方はいませんか? こちらもなめてかかるととんでもないことになりますからね。この話、まだ続きます。


  
   

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