2010年08月25日

店で役立つ技術と欲しかったメニューが続々登場!
編集担当者より♪

06082.jpg『フレンチテクニック パテとテリーヌ』

柴田書店編
発行年月:2010年8月27日
判型:B5変 頁数:124頁
定価: 1,890円(税込)


06083.jpg『フレンチテクニック コンフィとリエット』

柴田書店編
発行年月:2010年8月27日
判型:B5変 頁数:116頁
定価: 1,890円(税込)


06082_b.jpg 毎日暑いですね。
 みなさん、2010年の8月、9月は
「柴田書店におけるフランス月」です!

(特に深ーい意味はなく、単なる偶然でフレンチ関連の本が
まとまっただけなのですけれど・・・)

 な、何とフランス料理6冊と
フランス菓子1冊の新刊が発売されます。
ぜひぜひ書店の料理書コーナーに立ち寄ってみてください。
おいしそうな表紙の本がずらりと並んでいるはずです。

 そのなかで新しくスタートしたのが、
「フレンチテクニックシリーズ」です。

初回は『パテとテリーヌ』 『コンフィとリエット』
2冊をお届けします。

 昨今の草食系野菜ブームに真っ向から対向して、
迫力満点の表紙には、分厚く切った「ジビエのテリーヌ」と、
艶やかなソースがたっぷりかかった「鴨のコンフィのブレゼ」が
登場します。 おいしそうでしょ!
 写真はフランスの国の形をイメージして六角形にレイアウトしました。

 元来フランス料理は、
系統だった理論のもとに構築された料理なのですが、
本シリーズでは、その中から1テーマを絞って取り上げます。

 毎日の店での仕事の中から、
本当に必要とされる技術やメニューを選んで、
実際に役立つ内容を盛り込んでいきたいと思っています。

 みなさんにとって必要なこと、
知りたいことがありましたら、どんな些細なことでも結構ですので、
どうぞご返信ください。

広くみなさんのニーズに即した内容を、
本シリーズでは反映させたいと思っています。


06082_a.jpg


柴田書店Topページ

2010年08月20日

“料理人の創造力に火をつける一冊” 担当編集者より♪

006080.jpg『魚介のフランス料理』

柴田書店編
発行年月:2010年8月23日
判型:B5 頁数:270頁
定価: 3,360円(税込)


社内に既刊本をおさめた本棚があります。
わたしたち編集者は調べものをするため、
より多くの知識を身につけるためにたびたび棚の前に立つわけです。



あるとき、棚の前でふと気がつきました。
フランス料理の本はこんなにたくさんあるのに
「魚介」をテーマにしたものがないではないか!
そこで生まれたのが、本書の企画です。



魚介料理はどうしても定番の調理法に頼りがち。
オードヴルならば、軽い燻製やマリネ。
メインディッシュならば、白身魚のポワレにバターソース。
王道料理に王道料理のおいしさがあるのは確かですが、
魚介料理にはもっともっと可能性があるのではないだろうか?
アイディア豊富で確かな技術のある料理人さんの料理を集めれば、
面白いメニュー集が、きっとできる!


そう思って取材をお願いしたのが、この6人のシェフです(五十音順)。

荒井 昇シェフ(オマージュ・浅草)
岸本直人シェフ(ランベリー・表参道)
高山龍浩シェフ(トゥールモンド・大阪)
都志見セイジシェフ(ミラヴィル・神泉)※
長谷川 豊シェフ(エクロール・築地)
安尾秀明シェフ(コンヴィヴィアリテ・大阪)
※ 2010年秋にリニューアル、店名変更を予定



ほぼ1年にわたって旬の魚を追いかけ、
みなさんに約20品ずつご提案いただきました。
アミューズ、オードヴル、メインディッシュを網羅。
総収録レシピ数は、なんと123品!


どの料理もとても印象的なのですが、
ここですべてをお見せするわけにはいきませんので(当り前)、
おひとり1品ずつご紹介させていただきます。
立ち読み感覚でご覧ください。



 ◎荒井 昇シェフ

arai.jpg[オードヴル]

“瞬間スモークしたサーモンの温製
 半熟卵とキャビア レンズ豆の
 ラヴィゴットソースを添えて”



分厚く切ったサーモンを瞬間燻製。

食べごたえ充分でほんのり温かく
ねっとりとした食感がたまりません。



 ◎岸本直人シェフ

kishimoto.jpg [メインディッシュ]

“佐島産小甘鯛の炭火焼き 200gの世界”



小さな甘鯛の繊細なうろこの食感は、
何にもたとえようがありません。

たぐいまれなその食感を生み出すテクニックに
注目。



 ◎高山龍浩シェフ

takayama.jpg [メインディッシュ]

“黒米のリゾットを詰めたウナギのソテー
 赤ワインソース”



うなぎといえば、日本では鰻丼、
フランスでは赤ワイン煮。

これは、双方を融合させた
「マトロート風鰻丼」(高山シェフ)。



 ◎都志見セイジシェフ

toshimi.jpg [メインディッシュ]

“太刀魚と茄子、フォワグラのコンフィ”



フォワグラの脂でたちうおとなすを
コンフィするようにじっくり焼いたもの。

油を吸いやすいたちうおとなすが、
フォワグラの旨みをじっくりと含みます。



 ◎長谷川 豊シェフ

hasegawa.jpg [メインディッシュ]

“ハタハタのポシェ ソースゲヴュルツトラミネール”



日本の郷土料理のイメージが強いはたはたを
フランス料理の皿に。

上品な白身が香りのよい白ワインソースと
抜群の相性。



 ◎安尾秀明シェフ

yasuo.jpg [アミューズ]

“アンコウのフロマージュ・ド・テット”



あんこうの皮を煮凝らせて
フロマージュ・ド・テット仕立てに。

形、発想、ネーミングともに実にユニーク。



どうですか。どの料理もおいしそうで斬新でしょう?
料理人のみなさま方のインスピレーションに、
ぼわっと火をつけること間違いありません!
魚介のフランス料理の大いなる可能性を感じさせる一冊に仕上がったと思います。

これだけアイディアフルな料理を123品も収録。
ずっしり重い270ページのフランス料理本で3360円はお値打ちです(笑)!
イタリア料理人、日本料理人のみなさまにもヒントになる料理が満載。
料理人を志す学生のみなさんにもお手にとっていただければ幸いです!


柴田書店Topページ

2010年08月10日

料理本のソムリエ [ vo.7 ]

【 vol.7 】
ジャパン・クール“DONBURI”

 前回は牛丼のお話をしましたが、この丼=ドンブリは、あだやおろそかには扱えない、日本の誇る偉大な発明であります。アメリカの吉野家はBEEF BOWLと称しているらしいですが、カタカナで書くと肉だんごみたい。
ここはぜひ、DONBURIをワールドワイドにしていただきたいですね。

donburi_1.jpg というのも、ドンブリという器にはご飯とおかずを一緒に盛る、すなわち一人前を一つの器で簡単にサービスできます。江戸時代に発明されたワンプレートランチであり、料理提供スタイルの革新だったのです。鰻丼、天丼、カツ丼、親子丼、深川丼等々、庶民的なメニューが生まれるにはドンブリが欠かせませんでした。同じような用途の器にお重があり、こちらのほうが歴史が古いのですが、鰻重、天重、カツ重となるとちょっと高級なイメージです。何度も塗り重ねて作る漆器は大きくなればなるほど、製作の手間が増えて高価になるせいでしょうか。漆器には「鰻椀」という大型の平椀もあるのですが、最近はとんとみかけません。

 なおドンブリは日本独自の食文化ですから、中国には天津丼も中華丼も存在しません。これらは日本生まれの中国料理です。伝統的な中国陶磁を見ていると「鉢」や「碟」「海碗」といった似た形の器はあっても、丼と呼ぶのにぴったりなものがなかなかありません。とくに牛丼を盛るときに使うような深くて背の高いもの(下の写真の左端のタイプ)は見当たりません。浅くて口の開いたラーメン用のドンブリと比べても、中国の鉢はもっと腰に丸みがあります(右から2番目のタイプが近いかんじです)。大きさもドンブリよりは大きめです。
 取り分けるのが基本の中国料理の場合、鉢には料理を人数分盛り付けるわけですから、口が大きく開いていて丸みがあってたっぷり盛れるほうがよい。一人前が基本の日本のドンブリとは設計思想が違うわけです。
「丼」という漢字は「鰹」のような日本人が作り出した国字ではありませんが、もともと「ドンブリ」という意味はなく、日本であとから器の意味が付け加えられました。本来は「井」の篆書体でして(井上さんや石井さんの実印には丼の字が彫られているはずです)、中国でも使われなくなった古い字です。中国の人が「牛丼」という看板をみてもなんのことやらわからない(もっとも最近は「丼」という字ともども、中国でも認知が高まっているようですが)のは、こうした理由からです。

donburi_2.jpg

 このようにドンブリは日本独自のものなのですが、謎だらけ。まず、なぜ丼という漢字が当てられたのかがわからない。俗に井戸の中にドンブリを投げ込んだ様子を表しており(「井」の中に「ヽ」=ドンブリが入っているように見えるというわけです)、その時の水音が「ドンブリ…」と聞こえたので、この器の名前を「ドンブリ」というとか…。もっともらしい説明ですが、井戸の中に器を投げ込んで、どうやって回収するつもりなのか。そもそも何のために放り込むのか。ちょっと理由がわかりません。

 水音説に説得力がないとなると、語源もわからなくなります。「どん」+「ぶり」という発音はどこかしら怪しい感じで日本語っぽくありません。そのため、「湯鉢」(スープの鉢)と書いて朝鮮語で「タンバル」と発音する器が日本に入ってきて、なまってドンブリになったという説もあります。これは戦前の朝鮮陶磁研究家、浅川巧が『朝鮮陶磁名考』で言い出したもので、講談社現代新書の『食文化の中の日本と朝鮮』にも採用されている比較的有名な説です。
 しかしこれも根拠が弱い。まず朝鮮陶磁でドンブリに相当する形の食器が、中国同様ポピュラーではない。なにせ朝鮮は、料理は金属の器に盛る文化なのですから。それに戦国時代に朝鮮の陶工と一緒にドンブリが伝わったのならわかりますが、朝鮮との国交が制限されていた江戸時代も後半になってから、なぜ突然朝鮮の呼び名が普及することになったのかがわからない。そもそも中国陶磁や李朝陶磁において「湯鉢」という器形を聞いたことがない。浅川氏は「朝鮮の蕎麦屋、一膳めしやで使われている器」が湯鉢と呼ばれていると紹介しているのですが、これって逆に日本から輸入されたのではないかという疑問がわきます。巧は兄の伯教ともども朝鮮陶磁の研究で有名ですが、朝鮮にぞっこんの彼の主張はややもすれば牽強付会なところがあります。

 現在有力なのは「けんどんや」という外食業態にちなむという説です。漢字で「慳貪屋」と書きまして、慳貪とは、つっけんどんなこと。サービスはそっけなく、一人前を盛りきりで提供し(お代わりのない一膳めし屋です)、現金掛値なし。こうした飲食店で使う器が「けんどん振り」と呼ばれ、縮んでドンブリになったというのです。
 しかし、これもどうもストンと腹に落ちない。そもそも愛想のない「けんどんや」という外食産業の実態が今一つ不明なのです。けんどんやにヒントを得て始まったのが、けんどんそば。その配達用の箱が「けんどん箱」で、これが蕎麦を運ぶ「岡持ち」へと進化するのですが、のちに装飾の立派な「大名けんどん」という箱も現われます。これでは豪華なんだか、そっけないんだか、言葉として矛盾しております。
 実際に江戸時代の段階で、何のことかわからなくなる始末でして、「けんどん争い」なるディベートすら行なわれています。論争の主は南総里見八犬伝の著者である滝沢馬琴と、雑学考証の大家である山崎美成。彼らは自慢のお宝グッズ(この時代ですから骨董書画や考古遺物など)を披露し合う「耽奇会」というサークルを開いていたのですが、文政8年(1825年)そこで出品された「大名けんどん」の由来について手紙で大激論を交わします。『新燕石十種2巻』の「けんどん争ひ」や『兎園小説別集』(日本随筆大成第二期4巻)の「けんどん名義」によると、美成はけんどんやにちなむと主張するのに対し、馬琴はけんどんとは本箱に似た型の麺類を運ぶ道具のことであると主張。(つまり馬琴の時代になると、大名けんどんもけんどんやも何のことかよくわからなくなっているのです)泥沼化した挙句、言葉尻をつかんだ言い合いになり、絶交してしまいます。ネットの論争を見ているようでちょっと不毛な印象です。

 とまあ、けんどんがよくわからない以上、ドンブリという器の名称の由来もよくわからないのですが、そもそもドンブリがいつ生まれ、どのように普及したかという研究が、これまた乏しいのです。
 私の知る限り、ドンブリ史をまとめた唯一無二の研究は、寺島孝一先生の『アスファルトの下の江戸』「どんぶりと割箸」の章です。寺島先生は、東大埋蔵文化研究所で江戸遺跡の発掘に従事していたため、この本では文献だけを眺めていると見落としがちな江戸の人々の日常や道具に光を当てています。たとえば屋根の材質や硯、めんこなどで、考古遺物を通じて江戸の食生活について考える章もあります。「どんぶりと…」の章ではドンブリという単語が出てくる文献を探すとともに、当時のドンブリが、現代人が思い浮かべるそれと同じものかどうかを絵画資料から探っていきます。

 さて、ここからは寺島先生の受け売り。丼という語は元禄時代(1688 ‐ 1703年)に書かれた『男重宝記(重宝記資料集成 第11巻所収)』(これは当時の男性向けハウツー本です)にも出てきますが、意識して使われるようになったのは天明年間(1781 ‐ 1789年)だそうです。例の滝沢馬琴の兄の羅文が「近世丼という器出て、あまねくもてはやされる」と記録しております。羅文によると、大きさは10cm未満から30cmを越えるものまでいろいろ、底が細くて口が広く、饅頭を盛ったり、鰹の三杯酢を盛ったりと大活躍していたとのこと。朝鮮語の「湯鉢」を語源とするのに無理があるのが、ここからわかりますね。ちなみにドンブリにご飯が盛られるようになったのは、鰻丼が先駆けだったようです。文化年間(1804 ‐ 1817年)に鰻好きの芝居のパトロンが、観劇中に冷めないようにドンブリに鰻とご飯を入れて蓋をして取り寄せたのが始まりだそうです。

sobanojiten.jpg 小社の『蕎麦の事典』には、例の「けんどんや」や「けんどん箱」についても説明がありますが、都合のいいことに表紙に江戸時代の丼を描いた浮世絵が載っております。「花街模様薊色縫」という歌舞伎の1シーンで、屋台の二八蕎麦屋でかけ蕎麦(麺が太くてうどんみたいに見えるのはご愛嬌)を食べているのですが、六角形の小鉢のような形で今のドンブリとはかなり違います。ところが絵師の三代豊國が同じ画題で描く別バージョンの浮世絵もありまして、こちらは今のドンブリに近い釣鐘型。江戸時代の人の中でドンブリのイメージはいまだ固まっていなかったのでしょう。それが次第に使いやすいように、今の形へと進化していったと思われます。

 ところでこの浮世絵は、日本料理史上のもう一つの大革命を示しています。それはもり蕎麦から、かけ蕎麦への進化。後世のラーメンへとつながる汁そば文化の誕生です。これについてはまた後日に。




柴田書店Topページ

2010年07月23日

料理本のソムリエ [ vo.6 ]

【 vol.6 】
牛鍋と牛丼、二つのチェーン

 前回に引き続き、築地つながりの話題です。
牛丼の吉野家(ヨシの字は土に口と書くほうなのですが、ここではご勘弁を…)の1 号店は築地市場内にあります。もっとも明治32(1899)年の創業地は日本橋の魚河岸でして、市場が移ったのに合せて築地に移転しました。となると、築地市場が豊洲に移ったあかつきは、今度もまたお供するのでしょうか…。
 材料が牛肉なのに、なぜ魚河岸に縁が深いのか。それは牛丼が今も昔も「早い」「安い」が喜ばれた商品だったからです。魚河岸には、商品を運び、仕分けし、競り場に並べる「軽子」(かるこ)と呼ばれる作業員たちがたくさんおりました。彼らが仕事の合間に、土足で立ったままでも食べられるような手軽な食事が牛丼だったわけです。

gyudon.jpg 明治40年代の職業案内書を見ると、牛丼屋は「牛飯屋」「牛肉煮込屋」などと呼ばれておりまして、屋台でも営業できるし、小資本で参入できて利益率も高いと紹介されております。材料は切り出し肉や内臓。その昔は犬や馬の肉を混ぜた不届き者もあったとありますが…。
 この牛肉煮込とちょっと混同されやすいのが牛鍋でして、両者は単価が違います。こちらは文明開化の寵児として明治の初めごろにブームを呼んだ業態でして、牛丼よりはずっと高級です。

 牛鍋の話といえば必ず登場するのが別名「いろは大王」こと、木村荘平。彼こそは日本の外食チェーンの始祖であります。創業は明治11(1878)年。材料は一括で仕入れ、営業成績の載った社内日報を発行するなど、近代的な手法で牛鍋店の経営を行ない、店名の“いろは”にちなんで48店の展開を目指しました。ただし彼は、フランチャイズチェーン(FC)ではなく、自分の妹たちやお妾さんに店を持たすという究極の方法で、家族経営とチェーンの両立を図ったのが現代人にはまねできないところ。酉の日には全従業員とその家族をぞろぞろ連れて参詣し、店の存在をPRしました。なお料理を運ぶ店の女中さんは「軽子」と呼ばれていたそうです。
 荘平は何人お妾さんを持つつもりだったのかはわかりませんが、子供たちには生まれた順に数字で名前を割り振りました。なんだか昔の中国みたいですが、30人もいるとなると、そうしないと覚えきれなかったのかもしれません。いろはチェーンはカリスマ創業者が亡くなると傾き始め、大正元年(1912)年には倒産してしまいますが、木村家の遺伝子は優秀で、奇術師の荘七、画家の荘八、作家の荘十、映画監督の荘十二など、多くの文化人を輩出しております。

 エビスビールの大日本麦酒醸造会社を興し、競馬場を始め、現在の日本の火葬場の基礎を作るなど、とにかく型破りな経営者だった木村荘平については『悲願千人斬の女』が詳しいです。表題の由来となった松の門三艸子、芦原将軍、稲垣足穂、そして木村荘平と、破天荒な人生を送った4人の人物を取り上げた至極まじめな本なのですが、タイトルにインパクトを狙いすぎて損をしているように思えます。いろはチェーンの店は何店あったのか、いい加減な憶測がまかりとおっていたのですが、本書では19店中15店の住所まで調べ上げており、正確を期そうという執筆姿勢には頭が下がります。

 さて、話を吉野家に戻しましょう。こちらにも木村荘平にも負けないカリスマ社長、松田瑞穂がおりました。明治時代から素人でも参入しやすい業態としてみられていた牛丼屋ですが、1968年に吉野家が新橋に初めて支店を開いたその時から、今のようなチェーン店隆盛時代が始まります。

松田氏はアメリカ式のセントラルキッチンやFCをいち早く導入し、10年後には目標の200店を早々と達成。アメリカにも進出し、さらに300店舗の目標を掲げてチェーンの拡大を目指します。しかしその急拡大が災いして資金繰りがショートし、115億円の負債を抱えて1980年に会社更生法の適用を申請、倒産の憂き目にあいます。
 絶好調だった吉野家がつまづいたのは、味の低下に原因があったと分析されています。具体的には粉末ダレや冷凍漬物、フリーズドライの牛肉の導入であり、それが顧客離れを招いたのです。これだけみると、素材の質を落として利益を上げようとした安直な姿勢のつけが回ったかのように見えますが、その狙いは別のところにありました。粉末ダレは店ごとに味がぶれるのを押さえるためと輸送コスト削減、冷凍漬物は白菜の値段の季節変動を回避すること、フリーズドライの加工牛肉は当時あった牛肉輸入制限枠にとらわれずに輸入できることから導入に踏み切ったのです。しかし、それにともなう味の低下を軽視すぎた。策士策におぼれたり、という感じです。

taidan.jpg 吉野家の松田社長はたいへんなアイデアマンでした。当時の吉野家では、米においても画期的な技術を導入しています。
というのも、小社の「月刊食堂」のバックナンバーを見ていたら、1974年8月号の社長インタビューで松田氏は「空気洗米の導入」をアピールしていたのです。圧縮空気を吹き付けてヌカを落としたこの米は日持ちがよく(当時はいったん研いでから乾燥させた米が業務用として出回っていたのですが、水分を含むので日持ちが悪かったのです)、アルバイトでも簡単に炊けると彼は強調していました。これって今でいう無洗米と狙いは同じではないか。しかし米と米をこすりあわせて研ぐ、まったく水を使わない無洗米が登場したのは90年代からです。空気でヌカはどの程度まで落とせたのか、どこの精米機メーカーが開発し、どうして普及しなかったのか、今となっては謎です。

 ほかにも松田社長は3億円を投じて、各チェーン店の売り上げを本部や自宅のコンピュータのモニタでチェックするシステムを導入しています。70年代のパソコン(おっと当時はマイコン、もちろんBASICですね)といえばマニアの手製がお決まりで、静電気で部品を壊さないように台所でアースしながら組み立てていた時代ですから、そのハイテクぶりたるや恐るべしです。松田社長のニーズに技術が追いついていなかった。悲劇の経営者というしかありません。

 1987年に債務を100%返却して奇跡の復活を遂げた吉野家は、その後も話題に事欠きませんでした。吉野家を取り上げたビジネス書には、デフレ時代の象徴として注目したものとしては『新国民食吉野家!』(01年)『吉野家の牛丼280円革命』(02年)が、BSE禍の影響を受け、牛丼販売中止がニュースになった頃には『吉野家』『がんばれ!!吉野家』(06年)『吉野家安部修仁 逆境の経営学』(07年)が出版されています。しかし、これらの本は発行年が下がるにつれ、倒産はプロジェクトX的な感動エピソードの一つとして語られがちな気がします。

yoshinoyasaiken.jpg ところが会社更生終結の翌年に小社から出版された『ドキュメント吉野家再建』を読むと、そんな簡単なものではありません。動揺する社内の建て直しと団結、ノウハウ流出による分離独立店の防止、債権者との駆け引き、FCオーナーの説得など、きれいごとだけでは済まない企業の苦悩までもが描かれています。企業の危機とその克服の実例として、興味深い。
そもそもビジネス書は成功例と自慢話に満ちているものですが、失敗を正面きってとらえた本はなかなか珍しい存在でもあります。経営者たちは、戦国武将の格言を覚えたり、女子マネージャーに甲子園に連れていってもらうひまがあったら、こういった先人の苦労から学びとってほしいものです。

 吉野家が再建できたのは、原点に立ち返って味の向上をめざし、再建セールを打つことで再び吉野家ファンの支持を集めたことが大きかった。この成功以降、吉野家はあくまでも牛丼を商品の柱とする単品主義を守るとともに、全店一斉フェアでのてこ入れを重視するようになります。

 7月28日、また吉野家は安売りフェアに踏み切り、松屋やゼンショーもこれを迎え撃ちます。一般マスコミは牛丼戦争などと面白おかしく取り上げるばかり。安売りフェアも乱発するようになると、単なる消耗戦にすぎなくなります。どうせなら歩調を揃えて、「3チェーン合同企画による牛丼安売りゴールデン週間」とでもしたほうが(3店食べ歩くと何かもらえるとか)、牛丼ファンを増やす楽しいイベントになる気がするのですが…。もっと外食産業全体の活性化につながるような、建設的な方向には持ってこれないものでしょうか。



柴田書店Topページ

2010年07月12日

"ひとつとして同じ表情のピッツァはない" 担当編集者より♪

06079.jpg『ピッツァ』

柴田書店編
発行年月:2010年7月17日
判型:B5 頁数:92頁
定価: 1,995円(税込)


ピッツァって“(テンションが)上がる”メニューですよね。
一人でもくもくと口に運ぶ絵は浮かびにくいですし、
ましてやピッツァを片手に深刻な話をするお客も想像しにくい。
シズル感たっぷり、ボリューム満点の一枚がどんとサーブされれば、
顔はほころび、「おぉ」っと声があがるはず。
楽しく賑やかな食のシーンを演出する力が、
ピッツァにはあるように思えてなりません。

「ひとつとして同じ表情のピッツァはない」
それがピッツァの魅力のひとつだと思います。

『ピッツァ プロが教えるテクニック』では、
人気店のマルゲリータ11品をずらっと紹介していますが、
同じようなトッピング内容でも、仕上がりの違いは一目瞭然。
つくり手のポリシーがそれぞれ固有の姿を生むのです。

もっと掘り下げれば、同一店の同一メニューであっても、
コルニチョーネ(縁)の膨らみ方、焦げ目の付き方、トッピングの配置など、
一枚一枚の表情は微妙に違います。
「サーブされたピッツァとの出会いは、まさに一期一会」、
そんな感慨に浸るのはピッツァ中毒の私だけかもしれませんが……。

もうひとつ、極端に言えば「なんでもあり」と表現できるほど
メニュー設計の自由度が高いのもピッツァの魅力。
本書に収録したユニークな一品をいくつか紹介しましょう。

06079_2.jpg


◎ 『さんまのピッツァマリナーラ』

秋の定番和食を彷彿とさせる、
さんまのマリネ、大根おろし、
すだちの組合せ。

06079_3.jpg


◎ 『ネロビアンコ』

いか墨を用いた一品。
真っ黒なビジュアルと、
いか墨とにんにくの力強い香りで
インパクト大。

06079_4.jpg


◎ 『いちごのデザートピッツァ』

ヨーグルトとはちみつをベースに、
いちごをたっぷりとトッピングした一枚。


奇をてらったメニューのように思うかもしれませんが、これが本当に「あり」なんです。
ピッツァのルーツはイタリアといわれています。
しかし、日本で活躍するピッツァイオーロ(職人)の熱い想いや創意工夫により、
日本のピッツァ文化はいま独自の成長を遂げつつあると感じています。


06079_1.jpg


柴田書店Topページ

2010年07月09日

本音の飲食店

15323.jpg『本音の飲食店』

著者:稲本健一
発行年月:2010年7月14日
判型:四六 頁数:176頁
定価: 1,575円(税込)


「稲本さんの考えかたを本にしましょう」

そんな話をしたのは、思えばずいぶん前のことのような気がする。
実際に本が1冊できあがるまでに、何度も何度も、何度も稲本社長と会い、
膝を突き合わせて議論した。
イナケンワールドには、いままでの飲食業の経営者にはない、
まったく新しい風が吹いていて、わたしたち編集サイドもそれは感じているのだけど、
どこに入口が、あるいは出口があるのか、わからないまま進んでいった。

飲食業の経営ノウハウ書は多い。
社長の人生を振り返る本も少なくない。
いわゆる「自伝的な本」だ。
でも、そのどちらもつくりたくない。
新しい形にできるか? ひとつの賭けだった。

稲本社長の口から「本音の飲食店」というタイトルが出た時、
わたしたちは思わずうなずいた。
あ、これは、こういう本だったんだな。という感慨が生まれてきた。
こうなると本づくりはスムーズに進む。
デザインも、あまり迷うことなくシンプル路線に決まった。

語り口は、あくまでイナケン流でやさしく、
ひとつのテーマも2、3頁程度で読み終わる。
エッセイのようだが、エッセイと言うわけでもない。
著者はプロの文筆家ではなく実務家だから、
お腹の底から本音の言葉が出てくる。
それが、この本の大きなテーマになっている。
ただし、現場で何百人のスタッフを鍛え上げた言葉のエネルギーは半端ではない。


編集担当として泣けたフレーズは、これ。

「僕の人生は、飲食店とともにあったといっても過言ではありません。
何しろ僕はこの飲食店から、すべてのものを学んできた。
もし、この職業にめぐり会わなかったら何をしていたかと聞かれても、
答えようがないぐらい、僕には飲食店しかありませんでした」

真っ直ぐな、あまりに真正直な仕事への愛の告白に心を打たれる9頁め。
あなたも本書を読んでもう一度、仕事と向き合ってみませんか。


*** 出版記念セミナー開催決定!*********

「本音の飲食店 ―― いま飲食店がしなければならないこと ―― 」

ゼットン稲本健一社長初めての著書「本音の飲食店」の発行を記念し、
緊急セミナーを開催いたします。
不況の中でどのような経営を進めるべきか、売れる業態開発や、
スタッフ教育の悩み、チームづくりなど、
不況に直面する飲食店のあらゆる課題に、本音で答えます。
稲本社長と直接語り合えるこの機会に、ぜひご参加ください。

◎日時:2010年9月10日(金) 詳細はこちらをクリック!

*****************************

柴田書店Topページ

2010年06月28日

人気資格の過去問題と出題傾向がこの1冊に!編集担当者より♪

15322.jpg『フードコーディネーター過去問題集 3級資格認定試験』

著者:特定非営利活動法人
    日本フードコーディネーター協会 編
発行年月:2010年7月8日
判型:A5 頁数:128頁
定価: 1,890円(税込)


フードコーディネーター3級試験…
初級だからといって侮ってはいけません。
出題範囲がとてつもなく広く、内容も多岐にわたるのです。
その試験対策用に過去の出題をまとめたのが本書です。


◆ 3級資格認定試験での習得すべき事柄は以下の4項目◆

第1科目 文化 ―― 食文化
◎食の歴史と文化と風土
◎食品・食材の知識
◎調理方法と調理機器

第2科目 科学 ―― 健康と栄養と安全
◎厨房機器・設備
◎健康と栄養
◎食の安全

第3科目 デザイン・アート ―― 食環境デザインと芸術的創造性
◎食空間とテーブルコーディネート
◎テーブルマナーとサービス
◎食空間とデザイン

第4科目 経済・経営 ―― 経済的概念と食関連事業経営実務
◎フード・マネージメント
◎メニュープランニング
◎食の企画・構成・演出の流れ


公式テキストを読んで「なるほど、なるほど」と理解したつもりでも、
いざ試験となって、正誤判定、用語選択、語句の結びつきなど
出題形式が変わると混乱するものです。
試験問題に慣れる意味でも、
腕試しにも本書の活用をおすすめします。


***************************

15320.jpg3級資格取得の必携本!
『新版 フードコーディネーター教本』

著者:特定非営利活動法人
    日本フードコーディネーター協会 編
発行年月:2010年1月27日
定価: 3,150円(税込)

***************************


柴田書店Topページ

2010年06月23日

料理本のソムリエ [ vo.5 ]

【 vol.5 】
魯山人先生、築地へ行く

 ある魯山人本に、北大路魯山人は美食倶楽部時代に、築地へみずから足を運んで魚を仕入れていた、という記述がありました。前回申し上げた築地信仰のよい例でして、もうどこから突っ込んでよいものやらわかりません…。

 まず第一に、魯山人が美食倶楽部を開いていたのは大正時代ですから、魚河岸といえば日本橋のこと。美食倶楽部があったのはそこから1kmも離れていない京橋東仲町です。まあ、これは誰にでもわかるケアレスミスですが。
 問題は、魯山人が魚河岸へ足を運んだ事実をどう解釈するかです。市場に足を運ぶのをおっくうがる凡百の料理人と比べて、さすが魯山人先生は偉かった、とおっしゃりたいようなのですが、そんな現代感覚で簡単に物事を解釈してもらっちゃ困ります。

ajikanade.jpg というのも、東京の料理人さんの回顧録を見ると、料亭の魚の仕入れは店の主人、すなわち経営者の担当で、料理長は市場に行く習慣はないとあるんです。
小社の『味を奏でる人たち』は、15人の料理長の修業時代の話をまとめたものですが(その中には、短い時期ですが魯山人のいた星岡茶寮も体験している桑原清二氏も登場します)、この本の中で銀座「松本楼」に務めていた宮澤退助氏は、主人が包丁を握ることの多い関西は別として、「料理人が河岸に行くようになったのは戦後のことじゃないでしょうか」とまで語っております。もちろんこれは高級料亭の話でして、小料理屋や食堂では話が別だと思いますが…。

 市場は現金支払いですから、財布を握る者でなければ相手にしません。とはいえ雇い人に大金を預けた日には、ピンハネされないとも限らない。経営者は胴巻きに現金を入れて羽二重姿で市場に向かい、高級魚を扱う上物屋の帳場で仕払って、荷物は見習いの若い料理人が潮待茶屋から大八車で持ち帰るというのが通常の仕入れスタイルだったようです。実際、戦前の経営者座談会を読むと、せっかく自分が仕入れた魚に対して「こんなもの仕入れやがって使えやしない」と料理長に陰口を叩かれるのが、しゃくに障ると嘆いています。
 その点、美食倶楽部の経営は友人の中村竹四郎と共同ですから、魯山人は経営者といえなくもありません。主人みずから包丁を持つ「板前割烹」という業態が広がったのは大震災以降ですから、魯山人のような存在は珍しかったかもしれません。

 それでは築地市場が仮営業を始めた昭和の初め、すなわち星岡茶寮時代の魯山人はどうしていたかというと、昭和6年の料理雑誌で市場関係者が証言しています(匿名記事なのですが、私は前回紹介した『魚河岸怪物伝』に登場する長谷川秀雄とにらんでいます)。 
星岡茶寮は前の晩に問屋に電話注文して翌朝届け、品物の鑑定は問屋まかせという「大名買い」の代表例。とにかくその日に河岸にあるものの一流品を選んで、これ以上の物はございませんと言って届けなければ気に入らない。問屋としてはいいお得意様だが、高くつくので見方によっては下手な買出しだと、見切られております。
 ちなみにこの記事では、主人なり店の目利きのできるスタッフなりが買い出しにきて、一渡り河岸中の品物と相場を見て歩いて大勢を見定めたうえで行きつけの問屋で買うのを「健実買い」、あちこち河岸をうろうろあさって、とにかく安いものを買うのを「素人買い」と呼んでおり、健実買いをする主人の店を好意的に紹介しています。

nihonryorishiki4.jpg もっともこの暴露記事に恥じたのか、星岡茶寮の仕入れはその後、料理主任の担当となったようです。昭和10年頃に星岡茶寮主任となった松浦沖太氏は、「日本料理の四季」4号のインタビューによると、大抜擢されたときの魯山人の決めゼリフが「明朝から買出しに行け」だったそうです。またある時松浦氏は、魯山人に「毎日買出しに、どんな気持ちで行っているのか」と尋ねられ、「新鮮でいいものを買うようにしています」と答えたところ、「それは当たり前だよ、俺だったらその日の天気を考えてものを買うよ」と教えられたそうです。

 北鎌倉住まいで夜にならないと店に来なかった魯山人ですが、たまには築地に行くこともありました。昭和11年4月21日に、星岡茶寮で発行していた機関誌『星岡』のスタッフと松浦氏を連れて、自動車で築地に通うのは自分が初めてだろうと自慢たっぷりに案内しております。松浦氏は以前も魯山人とともに築地に来たことがあるようで、魯山人はすぐに人込みの中にまぎれて姿が見えなくなってしまうのだとか。松浦氏が料理主任になったのは21歳の若さですから、初めのうちは魯山人が付き添ったのかもしれません。
hoshioka67.jpg まあ、こんなふうに最近の魯山人に関する文章は時代背景をまったく無視して書かれているので、実に的はずれ。
そもそも魯山人唯一の料理本『春夏秋冬 魯山人の料理王国』は、かつて発表した文章を昭和30年頃にかなり書き改めたうえで一冊にまとめたものなのですが、初出一覧でその旨を断っていないため、一部は星岡茶寮時代に書かれた文として通用しています。

『魯山人著作集』に至っては、オリジナルの戦前発表の文と変更後の単行本の文を両方とも収録したあげく、どちらも初出は同じ雑誌としています。読めば似たような話が二回でてくるので、誰か気づきそうなものですが…。『魯山人の料理王国』は新装版が別の出版社から出たり、『魯山人味道』に収録されたり、文庫化されたりと、注意書きをつける機会は何度となくあったのですが、いつまで経っても改善されません。

 おかげで美食倶楽部や星岡茶寮の料理がどんなものだったかは、正しく認識されていません。その最たるものが、日本料理店が料理を一品ずつ提供するのは魯山人が始めたものという俗説です。一品出しの提供スタイルは江戸時代の料理本『即席料理素人包丁』にすら見ることができるのですが…。
 すべての料理を膳や懸盤に盛りつけて、いっせいに客の人数分を運ぶには、それなりの広さの盛り付け台と大人数の仲居さんが必要です。それにこの手法だと、いったん料理を運んだら次は膳を引くまで仕事がありません。花嫁修業目的の奉公人をたくさん抱えた大名屋敷じゃあるまいし、人材派遣所から日雇いで仲居さんを雇うようになった明治大正時代、人件費がかかって仕方ありません。

 そもそも魯山人が一品出しを創始したとしたら、普通と異なる提供法に仰天した客があちこちに書き残すでしょうが、そんなものは見たことがありません。当時書かれた星岡茶寮の評判を総合すると、「前菜」という提供スタイル、中国料理と日本料理の折衷を図った国際色あふれる料理、果物を多用するハイカラなデザートの3点が、よそと違って珍しかったようです。そのほか書家として、その日の献立を書いて客に配るサービスを行なった点(もっとも後にはスタッフに代筆させるようになりましたが)、陶芸家としては、大ぶりの鉢やまな板皿を焼き、それを食器に使用したという点もみのがせない特徴です。

 魯山人の前菜は、4つの四角い皿を組み合わせ、おばんざい風の料理を盛ったもので、今の日本料理の前菜や先付とはかなり雰囲気が違います。この“偶数の小皿盛り”というスタイルはむしろ中国の江南料理の前菜に近い。そもそも彼は友人の樫田十次郎の奥さんが主催する支那料理講習会に通っていたため、中国の調理技法に基礎があるのです。星岡茶寮の名物料理に魚の姿揚げである「琥珀揚」がみられるのもそのためです(ちなみにこの料理は『魯山人の料理王国』にも登場していますが、魯山人が勘違いして昭和10年に命名したと書き改めたために、その来歴がさっぱりわからなくなっています。初出は昭和8年の料理講習会なのですが…)。なにしろ魯山人は美食倶楽部時代には、日本料理には油脂が足りないので改革したいと婦人雑誌のインタビューで述べているくらいですから。
 果物を多用したのも当時有名な話でして、逆に「星岡茶寮は値段は高いが、実際に高価な素材は果物ばかりだ」と悪口を書かれたりしています。昭和9年の日本料理研究会の展示会でも果物の盛り合わせを出品していますので、本人も自信があったのでしょう。

 小社刊の『日本料理入門』の著者藤本憲一氏は、昭和10年に星岡茶寮に入り、のちに姉妹店の銀茶寮の料理長を務めていた料理人ですが、本書中で再現している星岡茶寮時代の料理写真からも先の3つの特徴がうかがえます。丸のままの果物が盛り付けられているのは、今にしてみると少し野暮ったい印象も受けますが、当時の雑誌に載った写真もこんな感じでしてリアルです。

nihonryorinyumon.jpg  nihonryorinyumon_2.jpg nihonryorinyumon_1.jpg

 こうしてみると魯山人の料理は実に近代的なセンスがうかがえる反面、今の人が想像しているようなしっとりとした趣きのある感じではありません。最初に挙げた“築地に仕入れに通う魯山人”と同じく、現代人の感覚が生んだまぼろしのような気がしてなりません。


柴田書店Topページ

プロがつくる166のサラダと109のドレッシング!!  編集担当者より♪

06078.jpg『サラダ・サラダ・サラダ』

柴田書店編
発行年月:2010年6月25日
判型:B5 頁数:216頁
定価: 2,310円(税込)


2006年に刊行した本書の前身『ニューサラダブック』
多くの読者のみなさんから支持をいただいたヒット作です。
こちらの表紙カバーの色はグリーン。とっても印象的なカバーでした。
担当のデザイナーの中村さんが、
今回もこの姉妹作と並んでも引けをとらない色を選んでくれました。
鮮やかな水色と青リンゴのようなみずみずしいグリーンです。
一番最初に提案していただいた色はもう少し淡くて優しい感じの色でしたが、
初校、再校と少しずつ調整して、はつらつとしたフレッシュなイメージに刷り上がりました。
見返しもカバーのグリーンと同色です。
いかがですか? 元気をもらえそうな色でしょう?

さて、本書は編集部3人で手分けをして取材に出かけました。
それぞれの担当のなかで心に残った、
ありそうでなかったサラダをいくつかピックアップしてご紹介しましょう。


06078_1.jpg◎ 『海水塩とハーブのトマトボール』
[取材担当:にへい]

サラダって見た目も要素だから、
ま、サプライズのひとつでんな。
歓声が上がるわ。
黄色、緑などいろいろな色のフルーツトマト、
プチトマトなどでバリエーションは拡大できるし、
つくり方もそんなにむずかしくないし……。
ただ、ひねくりまわすものじゃないから、
味のいいトマトでないと。

06078_2.jpg◎ 『豚ロースの山椒あぶりカボス風味』
[取材担当:にへい]

冷しゃぶタッチ、山椒の刺激とカボスの酸味で
豚ロース肉がバッカバカ何枚でも食べられるわ。
これ、ホントうまかったです。
脂の溶け具合が要諦かな。
ただ、これも捻り技じゃないから、
やっぱ、いい豚肉でないと……。
確かに、品質のいい豚バラ肉ならできるかもしれないなあ。
今度一度、実験しておくわ。

06078_3-1.jpg◎ 『サトイモ、豚バラ、ローズマリーのタルトレット』
[取材担当:いけもと]

「マルディ グラ」といえば、ガッツリ肉料理で有名ですが、
実は野菜メニューも充実しています。
オーナーシェフの和知徹さんに、
時代を先取りしたアイデア溢れるサラダを
ご紹介いただきました。
このメニューはマッシュしたサトイモに、
フォワグラの脂で炒めた肉類、
フレッシュのローズマリーを合わせたもの。
普通のポテトサラダにはない、複雑な旨みと香り、
ねっとり&サクッとした食感が特徴です。
手でつまめる気軽なスタイル、
自家製タルトレットに盛りつけた
楽しいプレゼンテーションも見どころです。
ビールやワイン、カクテルにも合いそうです。


06078_4-1.jpg◎ 『枝豆とジャガイモのサラダ オリーブオイルの香り』
[取材担当:さとう]

味の濃いジャガイモのねっとりした食感に、
つるりとした枝豆の食感と豆の甘さ、
パン粉のカリッとしたツブツブ感が、
やめられない止まらない!
このサラダ、身近な材料だけでつくったものですが、
これぞ野菜の力と組み合せの妙。
パン粉の“カリッ”が決め手です。くれぐれもカリッとね。
冬だったら『百合根のオーブン焼きとおろし大根のスープサラダ』もおすすめです。
粗くすりおろしてあるので、
柔らかなダイコンの食感を楽しめるし、
寒い時期ならではのやさしい甘みが生きているスープです。
身体によさそう!。


06078_5.jpg


柴田書店Topページ

2010年06月02日

料理本のソムリエ [ vo.4 ]

【 vol.4 】
ワンダーランド、謎多き築地

06002.jpg 先日、会社にラーメン店のかたから電話がありました。
つけ麺のスープ用にウルメイワシの煮干しを大量に仕入れたく、その入手方法を知りたいとのことです。畑違いの本にもかかわらず、小社刊の『だしの基本と日本料理』を読んで勉強されたそうで、嬉しい限りです。

 ちなみに小社にはそうした熱心なラーメン屋さんに向けた、『プロのためのラーメンの本』 『プロのためのラーメンの本2』という別冊もございます(PR)。
『プロのためのラーメンの本』には、だし素材の図鑑を載せておりまして、そこにあるようにウルメイワシの煮干しは近年品薄なのです。

80104.jpg 80104_1.jpg   80110.jpg

 このラーメン屋さんは築地の鰹節屋さんに連絡したが、そこは鰹節専門だったため、残念ながら扱っていなかったそうです。そもそも東京の鰹節店はそば店が上得意なので、品揃えもそば向きのものが多いですね。かびつけをしていない裸節は関西、煮干しは中京の問屋が積極的に扱うなど、だし素材には地域差があります。

 最近は、食材は何でもかんでも築地に集まると考えられがちですが、必ずしも築地がナンバーワンとは限りません。海産物でも車エビや海苔など、昔から市場外流通が中心のジャンルもありますし、場内の鮮魚においても、築地といえども取り扱う魚種に地域色があるのです。輸送に時間がかかる地域の鮮魚は、商品力に乏しいですから、高値がつかない限り、積極的には取り扱いません。東京のマーケットでは高値がつくのは何と言ってもすし種。逆にすし種に使わない魚種、たとえばハタ科の白身魚などについては、築地市場は弱い印象を受けます。

 築地はテレビや雑誌に多く紹介されるようになりましたが、こうした実態は必ずしも理解されていません。築地で食材を仕入れさえすれば、材料費を惜しまない素人のほうがプロよりもおいしい料理が作れると豪語する、神をも(料理人をも?)恐れぬ本すら現れています。築地神話は肥大化する一方です。

 そうした一方で、市場内から自らについて語り、築地とはどんなところなのか、理解してもらおうという動きが出てきました。今年2月に出版された小山田和明氏の『聞き書き築地で働く男たち』(平凡社新書)は、築地で働くさまざまな業種の大先輩にインタビューし、過去を振り返ってもらったもの。失われていく貴重な時代の証言です。マグロのような派手な世界だけでなく、練り物だの、小揚げ(競りの荷役)だの、ターレットトラックや台車だのといった市場を構成する様々なジャンルに目配りされている点で、他書の追随を許しません。ただし、それだけにマニアックで、市場に関する基本知識がないとその面白さを味わいきれないところがあります。

tsukiji_3.jpg 築地に関する基礎知識はどうやって仕入れたらよいか。ほぼ同じ時期に仲卸し3代目の生田與克氏が『たまらねぇ場所築地魚河岸』(学研新書)を出版しております。ただし、これは全体に妙なべらんめえ(江戸弁?)の語り口で書かれていてちょっと読みにくい。しゃべり口調は生田氏の持ち味のひとつですが、大修館書店から出した『築地魚河岸ことばの話』のほうが、一文一文が短いために読みやすい仕立てになっています。こちらはオールカラーという贅沢な造りの用語集であるため、知りたいことが端的につかめます。もっとも用語集なので、一から筋道立てて知りたい人には不向きですが。


 がっつり築地について学びたい人には、ハーバード大の人類学者による『築地』(木楽社)が3年前に出版されています。日本人なら見落としそうな一見当たり前のことまできめ細かく調べ上げていますが、かなりの厚さで学術的。市場に出入りしたことがない読者は、やはり生田氏の新書から入門したほうがいいかもしれません。

 ひとつ難をいえば、これらの本は歴史の解説に若干物足りないところがあります。何代も続いている店も少なくないため、当事者たちにはばかったのかもしれませんが、築地誕生のいきさつは、現在の移転問題を考えるためにも知っておくべきことだと思うのですが…。なにしろ移転問題を問う政治家アンケートの中に「市場が移転すると日本の食文化の伝統が破壊されてしまう」という回答があったのには驚きました。移転が原因で破壊されてしまう程度の伝統なら、日本橋から移ったときにとっくに失われていることでしょう。

 日本橋魚市場の移転は明治時代からの懸案事項でした。それは衛生問題や狭さの問題もありましたが、魚の輸送に鉄道を利用するようになったという点も見逃せません。大正時代の東京案内書を読むと、貨物で運ばれてきた魚を上野駅、東京駅、両国駅から、いちいち運び込んでいたとあります。そのため大正後半には、品川から東海道線を引き込めるうえに、大型船も横付けできる芝浦の埋め立て地に移転することが一応内定したのですが、反対が多くて迷走。関東大震災直後に、とりあえず仮設市場が置かれたのですが評判が悪く、海軍跡地の築地が急浮上したのです。

 ところが建設に時間がかかったうえに、市場関係者の既得権をめぐって揉めに揉め、仮営業の状態が昭和10年まで続きました。オープン後も不買運動が続いたすえ、16年には配給制度が始まるので仲買制度は廃止されてしまいます。戦後は戦後で物資不足。統制経済が解除された25年になって、ようやく築地は本格稼動したと言ってよいでしょう。

 ちょうどこの年刊行の岩波写真文庫の『魚の市場』を見ると、魚は木樽や木箱で運ばれており、現在の築地とはだいぶ様子が違います。市場に入荷する魚の半分は鉄道で、残り半分は船で届き、トラック輸送はたったの5%です。いまや輸送手段はトラック中心ですから、湾岸の豊洲のほうが道が混まなくて便利という意見はたしかにその通りです。
 なお戦前、戦中の築地をめぐる騒動については、尾村幸三郎氏の『魚河岸怪物伝』(かのう書房)から断片的に知ることができます。この本は小山田氏の築地で働く人たちが語る自分史とはちょっと違って、市場の大物たちの列伝です。人物にスポットを当てているため体系的ではありませんが、動き出した築地がどれほど多くの難問を抱えていたかは実感できます。

 かつての昭和の移転は実に時間がかかりましたが、荷主へのリベート請求や偽の相場情報を流すといった不正も一掃でき、近代的な市場システムに移行することに成功しました。今回も移転するにせよ再整備するにせよ時間をかけて取り組むべきですし、先入観や誤解に基づく外野の介入は謹んでほしいものです。
 まあ個人的には今の場所で市場を続けてほしいというのが、正直な気持ちではありますが。忙しい料理人さんにとっては築地の近さと地下鉄日比谷線で行ける便のよさがありがたく、移転すると通えなくなるという声が上がっています。編集者としては、仲卸しでの取材中に知り合いの料理人さんとばったり遭遇、なんていうハプニングがこれからも続いてほしいものです。


柴田書店Topページ