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2012年05月31日

新サイトを開設しました! 担当者より♪

柴田書店が姉妹サイトを新たに開設!

それが 『FOODLABO』 by 柴田書店 です。


foodolab_site.jpg


――食の総合出版社として約60年間培ってきたノウハウ、コンテンツ、ネットワークを活用して食に関する様々な情報を掲載。「食」に携わる方々に飲食店の繁盛に役立つ情報をタイムリーに発信します――
というのが、私たち『FOODLABO』のコンセプトです。

今、たくさんの情報が氾濫していますが、『FOODLABO』では“お役立ちサイト”をテーマに据えて、「レストラン」「料理」「外食人」「食ニュース」「文化・知識」の本質を紹介します。

日々変化を続けるトレンド情報をはじめ、最新オープンニュース、イベント情報などを毎日更新する他、人気店や話題店の料理レシピから外食人の業態発想術まで楽しい記事・コンテンツが満載のウェブサイトとなっています。

また日本の食文化のすばらしさをもっと浸透させるために、「日本の伝統食品」を図鑑で紹介。さらに日本の外食業の歴史を知りたい読者のために「早わかり年表」を用意しています。
下記はそれぞれのコンテンツ内容です。『FOODLABO』のサイトを見ながら内容をご確認してみてください。


 『FOODLABO』 サイトは、こちら からどうぞ
http://www.ss-foodlabo.com/


【主なコンテンツ】

■注目レストラン■
話題のレストランを毎週更新!
検索機能付きなので「レストラン探し」にも役立ちます

■最新ニュースヘッドライン■
柴田書店には毎日数えないくらいのニュースや情報が届きます。
その情報を厳選して新店オープンやイベント情報などを毎日配信します

■特集■
タイムリーな出来事を特集として掲載。
その時代の動きやトレンドが読み取れます
第1回目は、「あの店、企業の商品開発― おいしい料理、発想の原点―」です
鳥貴族/エムファクトリー/夢笛/リヨンブルーアンテルナショナル 他6店

■あの時、あの人の名言■
柴田書店が保管している過去の記事から名言を厳選・
日本の外食産業を築いたビッグチェーンの社長、
料理界を引っ張ってきたシェフの言葉をアーカイブ風に紹介します

■連載・錯覚の美食―人気グルメの解剖学―■
売れに売れてるヒット商品の“なぜ”を紐解く企画。
第1回目は、なぜ「ラーメン次郎」は行列ができるのか
第2回目は、「丸の内タニタ食堂」の人気の秘密(予定)

■食の便利図鑑■
日本の伝統食品、外食用語集、調理用語集などの資料室です
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(株)柴田書店 『FOODLABO』
編集長 大澤哲

【『FOODLABO』に関するお問い合わせ先】
TEL:03-5816-8269/FAX:03-5816-8262
e-mail:foodlabo@shibatashoten.co.jp

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投稿者 webmaster : 13:49

2012年05月30日

『アイスクリーム 基本とバリエーション』

06140.jpg『アイスクリーム 基本とバリエーション』
柴田書店編
発行年月:2012年6月2日
判型:B5変 頁数:204頁


 この本に収録したアイスクリームとデザートは、すべていただきました!
撮影取材は12月から2月の寒い時期。
寒さのせいか一度おなかを壊しましたが、おいしくておいしくて……。
「試食なんだから半分でやめておこう」と頭ではわかっているのに、
ついついスプーンを持つ手が止まらない。
多少の体重の増加なんて、このおいしさの前にはものの数ではありません。
もちろん仕事なんですけど……
連日のアイスクリーム三昧、とても幸せな2ヵ月ちょっとでした。

 さて、そんな中で私が気になったフレーバーをいくつか紹介します。


06140_31.jpg えっ! これアイス? って思ったのが
「オリーブオイルのアイスクリーム」 (p31 [ラ バリック])。

オリーブオイルを分離ぎりぎりまで増やしてつくったそうです。
冷たさよりもつるりとした食感を先に感じる
不思議なアイスです。


06140_42.jpg 「柿のソルベ」 (p42)も忘れられない味。

カキのやさしい甘さと香りを
そのまま生かしたソルベ。
とろりと完熟したカキを使うことが
ポイント!


 野菜のフレーバーをたくさん紹介してくれたプリマヴェーラ。
どれも味と個性的な香りが絶妙なバランス。


06140_50.jpgなかでもとくに心に残るのは 「玉ねぎのソルベ」 (p50)。

玉ネギを加熱して生まれた
香ばしさがなんともいえません。
加熱した玉ねぎの甘みが、
チーズやクレープなどに合います。


06140_34.jpg 「葉にんにくのアイスクリーム」 (p34)もタメイキです。

ニンニクの葉の香りを
アングレーズに抽出してつくった、
クリーミーなアイスクリーム。


 フロリレージュは、
ほんとうにおいしい「チョコレートのアイスクリーム」(p9)。
こんなチョコレートアイスなら、バレンタインデーに私は男になりたーい!。
でも「チーズのアイスクリーム」(p30)を使った
「フルムダンベールのアイスクリーム」(p165)は毎日食べたーい。
なんて欲張りな……。

06140_09.jpg   06140_165.jpg


06140_52.jpg 「大葉のソルベ」 (p52 [オルタシア])も印象的な味。

大葉って、夏にぴったりだと思います。
強すぎるほどの大葉の香りだけれど、
つめたいソルベなら、やわらかい印象的な香り。

06140_21.jpgいうまでもなく、
口のなかから鼻にすっと抜ける
「アイスパウダー」 [オルタシア]も
衝撃的でした。


06140_66.jpgH社の「メープルウォールナッツ」も大好きだけど、
「メープルとキャラメリゼしたくるみのパルフェ」
 (p66 [プレジール]) はしびれるおいしさです。

香ばしくキャラメリゼしたクルミを
メープル味のパルフェに混ぜ込んだ
人気のフレーバー。


06140_173.jpg そして、やっぱりアイスといえばパフェ。
パフェははずせません。
パティスリープレジールのイートインメニューは季節ごとにかわります。
果実やハーブをそのままかためてつくった
フレッシュなグラニテを組み合わせたり、
表面をバーナーでこがしたり……。
とにかく変化に富んでいます。

 あれも食べたい、これも食べたい、と過ぎた日々をなつかしく思う今日この頃。
みなさんもぜひぜひ、お気に入りのアイスクリームを
お店のメニューに加えてみてください!

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投稿者 webmaster : 16:19

2012年05月29日

『フルーツパーラー・テクニック』

06141.jpg『フルーツパーラー・テクニック』
著者:タカノフルーツパーラー
発行年月:2012年5月31日
判型:B5 頁数:176頁

新宿高野は1885年創業。
タカノフルーツパーラーの誕生は1926年です。
そんな老舗フルーツパーラーですから、扱うフルーツも上質です。

はじめて見る(味わう)ものもあり、大変楽しませていただきました。
フルーツは、さまざまな品種が次から次へと出てくるものらしく、
一昔前の人気フルーツは、すでに流行らなくなっていたりします。

たとえばブドウは、皮の厚い巨峰などより、
シャインマスカット、ロザリオ・ビアンコ、ピッテロビアンコといった
皮ごと食べられる品種が近年人気です。
パキッとした食感が、新しいおいしさです。

06141_2.jpg◎シャインマスカット

大粒の黄緑色で、酸味は少ないく、
糖度が高い。
種ナシで皮も薄く、香りも豊かなのが特徴。

06141_3.jpg◎ロザリオ・ビアンコ

粒が大きく黄緑色で、皮が薄く、
甘みが強くて上品な食味が特徴。

06141_4.jpg◎ピッテロビアンコ

細長い果粒の形がユニーク。
緑色で、酸味が少なく爽やかな甘み。
果肉がしまっていて、
コリコリとした食感が楽しめる。

イチゴの品種も多く、味わいの違いが楽しめます。
本にも登場している白イチゴ(初恋の香り)は大変高価なものですが、
珍しさもあって、とても人気があるそうです。

06141_1.jpg

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投稿者 webmaster : 17:23

2012年05月25日

料理本のソムリエ [vol.43]

【 vol.43 】
柴田書店と青林書院と勁草書房を結ぶ縁


 前回、春の陽気に誘われてのこのこ湯島から本郷まで足をのばした当ブログ主でありますが、賢明なる読者諸氏はすでにご明察の通り、「呑喜」さんはGW休みで閉まっておりました。でも、ぜんぜん悔しくなんかありません。なぜなら財布をうっかり会社に忘れてきちゃってましたからね。えへん。暖かくてジャケットを脱いで椅子の背に引っかけていたのが運のつき。うかうか食事して、さあお会計ってときに気づいた日にゃえらいことになってましたよ。なんて間がいいんでしょう。

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 仕方なく本郷通りをすごすごと本郷三丁目方面へ向かいます。このあたり、古本屋さんをはじめずいぶんシャッターを閉じた店が多くなりました。カレーの「ルオー」は両隣が閉じてしまってぽつんとさびしそう。東京の真ん中でもシャッター通りが出現するとは嫌な世の中になったもんですなあ。
 東大正門前の自然科学と古典籍に強い古本屋、井上書店さんが頑張っていらっしゃるのにちょっと安心。柴田書店は昔こちらから資料を買ったことがあるとかで、会社宛にずっと律儀に古書目録が送られておりました(もったいないから私が横取りしてました)。その向かいの「万定フルーツパーラー」もまだまだ健在ですぞ。うれしいですねえ。ここの時代物の立派なレジスターもまだ現役かな? おっと財布を忘れたのを忘れてドアを開けるところだった。あぶないあぶない。

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 突き当たりの六叉路の奥にあった、細打ちのいいそばや梅そうめんがおいしい「萬盛庵」さんは、ご主人が亡くなったとかで残念ながら閉店されてしまいました。角にあったレトロで重厚感のある建物には文生書院さんが入っていて、そのいかめしい分厚い扉を押すのはちょっと勇気が必要だったのですが、これも今はありません。もっとも人文古書を扱うかたわらで学術出版にも励む文生書院さん自体は、目と鼻の先に引っ越して今もばりばり活躍中。GW前に古書目録が出たばかりだし、新刊の『在米婦人之友復刻版』にはどんな料理記事が載っているか興味あるぞ。ちょっと寄っていこうかしら…って、一文無しでどうする。全然懲りておりません。

seirinshoin.jpg 以前文生書院さんがあった建物の向かいが、これまた学術出版社の青林書院さんの本社ビルです。法律や経済、経営などの社会科学がご専門。さすが天下の東大のお膝元。固ーい出版社が目白押しですなあ。

 でもね、固そうにみえて気持ち軟らかめの柴田書店と青林書院は、まんざら赤の他人ってわけでもないんですよ。実は先日、小社の営業部が総出で会社の初版本を整理したのですが、その中からこの通り、青林書院さんの本もでてくるでてくる…。ダンボール1箱分ありました。実は柴田書店創業者の柴田良太は、青林書院の初代社長でもあったのです。

syohanbon.jpg

 もっとも社長と言っても出資者で、経理担当みたいなもんでして、現場を切り盛りしていたのは逸見俊吾氏です。彼はこれまた学術出版社として有名な勁草書房の創立者でもありました。同社は北陸に展開する大和百貨店の出版部として昭和23年に誕生したのですが、富山出身の逸見氏がその広い人脈を買われて主幹に就いたのです。石川県の物産などを販売する大和百貨店東京支店は銀座資生堂の前で、その3階に勁草書房が入っておりました。

 しかし2年後にはテナントの料理店から出火して東京支店の建物は焼失。勁草書房を辞めた逸見氏は、政治家の松村謙三の秘書になりまして、しばらく出版の世界から遠ざかっておりました。ところが肝心の総選挙の時期に逸見氏は、急性盲腸炎をこじらせて長期入院するという運の悪さ。病室で悶々としているところを狙いすまして、彼の才能を惜しんだ柴田良太が、出版界に帰り咲くよう何度も口説きに参ります。良太は3年前に柴田書店を興したばかりでしたが、前職は取次ぎ(本の問屋さん)で仕入れを担当していたため、逸見氏の企画・編集力を知っていたのです。

okuzuke.jpg そこで二人で始めたのが青林書院というわけです。100万円の資本金を出した柴田が社長で逸見氏は取締役。昭和28年8月のことで、柴田良太が28歳、逸見氏は30歳でした。
 最初に出版したのは武者小路実篤の『生涯を顧みて人生を語る』。さらに『経済学演習講座』『実務法律講座』『仮差押・仮処分』といったヒット作を連発します。しかし元来地味で堅実型、慎重型で露骨に感情を出さない良太と、直情的で単純で楽観的な逸見氏は、二人のプライドも手伝って離反してしまいます。性格の不一致という奴ですね。
 良太は本業の柴田書店に専念すべく、株を逸見氏に売り渡しまして青林書院の経営から身を引きます。一方の逸見氏はライバルである有斐閣の向こうを張って『現代法学全書』を発行したり、『法律学ハンドブック』といった本を世に送り出しますが、元来派手好きな性格のために銀座で豪遊したり、芸能人とつきあったりと出費も多く、経営は順風万帆ではありませんでした。株を引き取るために良太に月々払っていた借金も滞る始末です。

 そこで起死回生の策として着手したのが、自身の芸能界との人脈を生かしたソノシート付の音楽全集出版です。ソノシートってレコードよりもぺらんぺらんした材質でできていて、ウルトラマンだのオバQだののテレビ主題歌などが入ったものは子供雑誌の付録の定番だったのですが、説明は省きます。音が出る丸いビニール板とでも思ってね。

 当時、朝日ソノラマを筆頭に、ソノシート付出版物を世に送る会社はいくつかありましたが、レコード会社の原盤からおこした豪華な青林書院の全集は世間をあっと言わせるものでした。ところが好事魔多し、肝心のソノシートに不良品が大量発生して返品の嵐となり、青林書院は昭和36年に1億3000万円の負債を抱えて倒産してしまいました。このときの一部始終は俊吾氏の伴侶で、与謝野晶子研究者として知られる逸見久美氏(vol.24 に出てきました翁久允の娘さんでもあります)の『女ひと筋の道』が詳しいです。

「青林書院いよいよ倒産」の噂が世に広まると債権者たちは朝から逸見宅に詰めかけ、土地建物、在庫をよこせと迫りますが、どれも何重もの担保となっており、どうにもなりません。残務処理用の虎の子の30 万円を狙って経理部長と営業部社員は退職金をよこせと迫ります。くだんの経理部長は債権者に脅されて、社長が会社の金を着服しているとその場逃れの嘘をつき、事態はさらにこじれます。在庫を押さえようとしにきた取次ぎ側についた営業部社員とそれに反対する社員とで乱闘寸前。社内の空気はもうずたずたです。

 このとき柴田良太はすでに青林書院から離れていたため、一連の騒ぎとは無関係でした。息子さんを実家の富山に避難させた逸見久美氏が、小学校へ説明に行ったとき、偶然良太の妻の孝子と出会います。二人は青林書院創業時の取締役で経理に携わった仲でした。
〈昨日からの緊張が急にゆるんだ私は奥さまの顔をみるなり苦境でめぐりあった姉妹のように、「とうとう青林は駄目になってしまったの!」と思わず弱音を吐いてしまった。この人なら私の気持ちを分って下さると思って安心してしまったのか、つい口走ってしまった。…(略)…。奥さまはすでに青林倒産のことは知っていたようすで、「大変ね、辛いでしょう!」とおっしゃるなり、私の手を取って「がんばってね」と涙ながらに力づけて下さった。私も今までこらえていた涙の堰が急に切れてしまったように嗚咽が止まらなかった〉

 実は会社の危機に狼狽する俊吾氏を支えていたのは、久美氏(社員の退職金用の170万円は彼女の機転で漬物樽の中でした)でありました。自分が夫を支えなければと、倒産劇の間、終始気丈に振舞い続けていたのです。

 しかしこの直後に事態はさらに深刻な方向に向かいます。学校で息子の担任の先生に会って事情を説明しているさなかに放送で久美氏は呼び出されます。債権者の一人である友人が差し向けた弁護士が迎えにきており、逸見社長を安全な旅館に避難させたというのです。社長の姿が消えたと社内は騒然。この間にも支援者の顔をした友人は、憔悴した逸見氏に言葉巧みに迫り「譲歩担保の契約」のハンコをつかせてしまいます。紺屋の白袴とはよく言ったもので、法律書の出版元でありながら、そのハンコが何を意味するのかその時の逸見氏にはわからなかったのです。

 この契約に従って、社内に残っていた在庫はその日の夜中にごっそり持っていかれてしまいました。翌日の土曜日の朝、すっかり空っぽになった社内に怒った社員たちは、債権者たちに連絡しますがあとの祭り。この日、不渡りを出した青林書院は倒産しました。創立から8年後の9月16日でした。

 二日後の債権者集会には、100人近くの人が押しかけました。社員たちも債権者の味方をし、社長夫妻は針のむしろです。在庫はくだんの友人が抜け駆けして債権替わりに一人占めしたという噂はすでにもれており、不明をなじられます。しかし最大の債権者であるレコード会社は、元はといえば青林書院倒産の元凶であることが次第に明らかになり、債権者側も一枚岩にまとまらず、2時間の集会は結論の出ないまま終わりました。

 その後は債権者の委員長となった製本屋の社長が仕切り、債権は一律1割に圧縮するということにして、新会社再建の方向に向かいます。しかし、この委員長は不良編集長(倒産の2年前に自社の新刊を古書店に売って私腹を肥やしていたのを久美氏に目撃されていたのです)と結託して、紙型(活版印刷の原版です)をほかの債権者に内緒でこっそりと弟宅に運び出していたことがわかり、支持を失ってしまいます。こうして怒涛の3カ月を経て、青林書院新社の社長は、債権者の一人だった中央精版印刷社長の草刈親雄氏がつき、再出発の運びとなりました。

 以上、これでもかなりはしょって駆け足で見てきましたが、実に生々しい。債権者も生活がかかっていますから仕方ないのかもしれませんが、生き馬の目を抜くというか、仁義のかけらもないというか。

 しかし捨てる神あればなんとやらで、理解ある草刈社長に常務として迎えられた逸見氏は、再び本業の専門書でヒットをとばします。またもや新刊書の横流しに手を染めた挙句に、逸見氏追放に走った旧青林書院の社員たちは、草刈氏の逆鱗に触れて首がとび、3年後には見事社長職に返り咲きました。ちなみに倒産以降は銀座の豪遊はぴたりとやめたそうです。代わりに始めたのが骨董蒐集でして、こちらもおぼれると結構危険なように思えますが、逸見氏の眼利きは確かでありまして、南宋の名僧、無門慧開の数少ない自筆双幅を手に入れたのはこの後のお話であります。

shibataryota.jpg 一方、柴田良太のほうでありますが、昭和41年2月、準備中だった『月刊専門料理』の創刊を待たずに、羽田沖全日空遭難事故でこの世を去ります。絶筆は『月刊食堂』編集後記の「年齢と仕事」。41歳でありました。

 133名が亡くなったこの飛行機には、代理店の東弘通信社が札幌雪まつりに招待した多くの出版関係者が乗っておりました。美術出版社大下社長、誠信書房柴田社長、裳華書房吉野社長、共立出版南条社長、春秋社岩淵社長、内外出版社清田社長、啓佑社篠武社長、錦正社中藤社長、旭屋書店早嶋会長といったトップたちです。さらに白水社の篠田次長、池田書店の池田専務、有紀書房の高橋専務、大日本図書の藤原書籍部長など24名が犠牲になりました。この便に同乗していた東弘通信社社長は青林書院の取締役も兼ねておりまして、逸見氏も旅行に誘われていたのですが、まだ再建まもなかったこともあって遠慮したのが、二人の命運を分けました。もし俊吾氏が命を落としていたら、逸見久美氏が経営につき、『鉄幹晶子全集』などの与謝野晶子研究書の数々は生まれなかったかもしれません。なお逸見俊吾氏は平成14年に78歳で大往生されております。

 というわけで、柴田書店と青林書院と勁草書房の出版物を並べた企画棚を作りますと、その書店さんはビブリオマニアたちから一目も二目もおかれることまちがいなし(金沢や富山の紀伊國屋書店さんはとくに)。でも、両社の本はきっと相乗効果で売り上げが伸びますが、柴田の本だけ浮きまくること請け合いですけどね。

 ちなみに柴田書店はというと、良太亡きあと孝子夫人が急遽2代目社長に就きますが、昭和57年には創業家の手から離れ、10年前には民事再生をいたしました。しかし民事再生というのは法律でがっちり守られての建て直しなので比べるまでもありません。なにせ債権者説明会の真っ最中、すぐ下のフロアの写真スタジオで私はキャビアの食べ比べをしてましたから(笑)。

senmonryoti200204.jpg いえいえ、普段から社内でキャビアに舌つづみなんぞを打っていたから会社が傾いちゃったわけじゃないんですよ。キャビアだって撮影で使ったもんだし、私が自腹で買ったもんだし。落ち込むのもなんだから、いっちょうこいつで景気をつけてやろうと思いまして。それにしてもあの頃はイランのハタミもロシアのプーチンも外貨が欲しかったせいか、キャビアがかなり安く出回っておりましたなあ。

 その後、柴田書店は社長は代替わり、なんとか再建しました。一方アメリカが言うところのならず者国家のイランも、憲法をきっちり守ってハタミは大統領選再出馬を見送っておりますが、プーチンはいまだ現役です。世の中、先のことってまったく予想がつきませんね。カスピ海のチョウザメは禁漁となり、キャビアは再び編集者風情にはおいそれと手の届かぬ存在になりましたし。

 あ、ちなみに私は会社の新刊を古本屋に流したお小遣いでキャビアを買ったりしてませんからね。柴田書店の本は読者様に高い高いと言われてますが、学術書と比べればたいしたことなくて、危険を冒してまで横流しする旨みが薄いし…こう書くと妙にリアルでますますもって怪しいですが、断じてしておりませんたら。神保町を歩いていて挨拶されてもどこの古本屋さんだかさっぱりわからない、人の顔を覚えられない私ですから、こっそりと悪だくみをしようがないのですよ。だいいち机の上に財布を置きっぱなしで気づかないような間抜けな人間は、そんなに巧妙に立ち回れません。

  

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投稿者 webmaster : 17:23

2012年05月21日

Bakery book [ベーカリーブック]vol.6

80123.jpg『Bakery book [ベーカリーブック]vol.6』
柴田書店MOOK
発行年月:2012年5月21日
判型:A4変 頁数:204頁


 最近こだわりのベーカリーでたびたび耳にするのが、石臼で自家製粉をはじめたという話。
いろいろな小麦粉を扱うなかで、小麦そのものを自家製粉するパンづくりに挑戦したくなるのは、研究熱心なパン職人にとって自然な流れなのかもしれません。


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 巻頭で紹介した自家製粉の店も、数々のパンの生地配合やレシピを紹介してくれた実力派シェフたちの店も、地元の小麦でパンづくりを実践する店も、いずれもそれぞれにおいしさを追求し、人気を得ている地元密着店です。
また、趣味の米粉パンづくりがこうじて店をオープンした事例からも、パン文化の個性化、多様化への広がりがうかがえます。


 今回取材を通じてあらためて実感できたのが、パン用国産小麦の進化でした。
日本のパンは、ほとんどが外国産小麦からつくられており、国産小麦粉が占める割合は、ほんの数%にすぎません。
それでもニーズの高まりとともに数々の品種が開発され、生産地も広がってきました。
数年前から、人気の北海道産小麦「ハルユタカ」が入手できにくくなっていますが、その事情も今回の記事で理解していただけると思います。
栽培が難しくて、なかなか安定した生産量が確保できないといわれる国産小麦ですが、品種や産地の情報が入るだけに、ますます面白みが増している素材といえるようです。


80123_2.jpg ベーカリーのギフト企画は、洋菓子店のスイーツ対抗(?)企画です。
生菓子よりは日もちがし、持ち運びやすく、価格もリーズナブルなため、意外と増えていそうな“パンの手土産”需要。
「ちょっとしたプレゼントに」という要望にこたえられるような、ぴったりの商品や簡単なラッピングのヒントにしてください。


80123_3.jpg そしてベーカリーのギフトといえば、定番化しつつあるのが、クリスマスの「シュトーレン」。2011年に人気を博した20店の品々を一堂に集めました。なかには、ドライフルーツの洋酒漬けなど、すでに準備をはじめている店もありました。
ドイツの伝統的なレシピから、ケーキタイプ、チョコレートや和風味など、じつに個性豊か。次のクリスマスは、どんなシュトーレンが登場するのか楽しみです。

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投稿者 webmaster : 09:57

2012年05月17日

『専門料理2012年6月号』 編集後記より

131206.jpg『専門料理2012年6月号』
発行年月:2012年5月19日
判型:A4変 頁数:184頁


特集:デザート 初夏の食事の最後を飾る皿45

「華やかさや驚きも、デザートのおいしさのうち!」
「アレンジしやすいからこそ、基本が大切なんですね」


moon_1.jpg 今月の特集は「デザート」。レストランのデザート、ビストロのデザート、そして日本食材の活用法と盛りだくさんの内容で、華やかな一冊になりました。

sun_1.jpg 第1企画の「『これぞレストラン』堂々たるデザート拝見」では、山根シェフ(ポンテベッキオ。20ページ)のデザート(写真1)が印象的だったね。

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moon_2.jpg 「果物が少ない時季に、旬の野菜でデザートを作ってみては?」という提案でした。ホワイトアスパラガスを大胆に使って、白いのはソース・オランデーズ? と思ったらザバイオーネだったり、こんがり焼けたアーモンドのタルトが添えられていたり。驚きがあって、しかもおいしい。まさにリストランテのデザートです。

sun_1.jpg 第2企画には、気鋭のシェフ6人が登場。素材の特性を掘り下げたり、プレゼンテーションに遊び心を加えたりと、勢いが感じられる品を見せてくれた。

moon_3.jpg 小笠原シェフ(エクイリブリオ。28ページ)の3品は一見シンプルに見えるけれど、スポンジとクリームを3日間なじませたティラミス風のデザートに、料理と並行して焼き上げるでき立てのタルト、そして半年間熟成させたクリ(写真2) ―― と、実はどれも「時間」にフォーカスにした意欲作。藤原シェフ(Fujiya1935。32ページ)の「記憶の中のイチゴ畑」をイメージした品(写真3)とも通じる、テーマ性の高いデザートでした。


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sun.jpg ところで、「ビストロのデザート」と聞いたらどんなものが思い浮かぶ?

moon.jpg 唐突ですね……。
 ババにパリ・ブレストにタルトとか、クラシックなお菓子のイメージかな。

sun_3.jpg そうしたビストロの定番の品のブラッシュアップ版を見せてくれたのが、第3企画の金井シェフ(ブノワ。38ページ)や田中シェフ(サンパ。40ページ)。ババ一つとってもアルマニャックを使った金井シェフに、ワインのコルク形に焼いた生地に赤ワインを添えた(写真4)田中シェフと、意外性のある仕立てでいい意味で期待を裏切ってくれました。

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moon_1.jpg 意外性といえば、全体を通して、醤油や桜の花など日本食材を積極的に取り入れるシェフも多かったです。

sun_1.jpg そうした日本食材の活用法を、森田シェフ(リベルターブル。50ページ)に掘り下げて考えていただいた。その結果出てきた「ポイントは、無理をしすぎないこと」という言葉は示唆に富んでいた。

moon_1.jpg食材の持つ日本的なイメージに引っ張られすぎず、自然な形でフランス料理に落とし込むことが大切なんですね。

sun_1.jpg アレンジをきかせやすいデザートだからこそ、基本がしっかりしているかどうかで、でき上がりに差が出るんだね。


パリからは、新一ツ星の日本人シェフをレポート!


moon_1.jpg 『ギド・ミシュラン』のフランス版で新たに一ツ星を獲得した小林シェフ(レストラン ケイ。58ページ)と吉武シェフ(Sola par Hiroki.Y。62ページ)にも、パリからご登場いただきました。

sun_1.jpg 2人とも、一ツ星を「目標」としつつも、「ゴール」とはとらえていない。さらに先を見すえていたのが印象的。料理にも、その勢いが現れていましたね。

moon_1.jpg 平松宏之シェフ、吉野 建シェフといったベテランが切り開いた道を今、若手が邁進中。本場・パリの日本人料理人の層も確実に厚みを増しています!

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投稿者 webmaster : 19:21

2012年05月02日

料理本のソムリエ [vol.42]

【 vol.42 】
おでん大好き松崎天民

 さて今回は下町独特のおでん種の話題にかこつけて、公園前のおでん屋台で一番安いボールとウインナーばかり買い食いしてた幼き日の思い出や、給食におでん茶飯が初めて出てきた時の驚きをとうとうと語って、昭和気分にたっぷり浸る気満々でいましたが、あんまりしつこいので自重します。なんだかおでん伝道師と思われかねないし…って、これまた前に見たことのある展開。いよいよぼけたかな? すみませんもうしません。ちょっと我慢してもう1回だけおでんの話にお付き合いください。同じ昭和でも戦前の話です。

 前回紹介した『日本全国おでん物語』で新井由己氏は、江戸時代創業の大阪の「たこ梅」や明治16年創業の京都の「蛸長」などのだしは鰹節で昆布を使わないこと、関西の家庭でも鰹だしで甘辛の関東煮を作る人が多いことなどから、鰹だし濃口の関東風・昆布だし淡口の関西風というおでんの区分は当てはまらないのではと疑問を呈しています。そこで江戸・明治・大正・昭和のそれぞれの時代に特徴的なおでんが存在していたという仮説を立て、昭和4年創業の銀座の「一平」がおでんを“飲めるスープに改良した”という家伝を紹介して、同店がおでんブームに火をつけて、現在のスタンダードの味を作ったと解釈しておられます。これについては半分賛成ですが、同時代資料の裏づけがほしいところですね。一平の改良が創業時からだったのか、当時画期的だったのかがわかりませんから。

 というのも、グルメガイド本の嚆矢である白木正光の『東京名物食べある記』(これは昭和4年版、タイトルをちょっと変えた『大東京うまいもの食べある記』8年、10年版があります)ほか昭和初めのガイドをいくつか見たのですが、それらしい指摘が見当たらないのです。昭和8年版に「一平」銀座店の紹介がありまして、岡本一平の名にちなんで彼の大幅がかかっているとか、一平揚、一平焼なんてのもあるとか、家族連れが多くて新婚早々のカップルが食べにきているとかあるものの、飲めるスープかどうかについては触れられておりませんでした。かたや<スープ煮の関西おでんととんかつで売出した「多助」>なる店がイラスト入りで紹介されていまして、どうやらこの時代、スープ煮のおでんは登場しているようです。

tabearuki.jpg それでは東京・大阪のどちらのおでんにも精通していた人は、東西の違いをどう感じていて、一平のおでんをどう評していたのでしょう。その適任者は、昭和初めのグルメ雑誌「食道楽」主幹である松崎天民。『大阪食べある記』と『東京食べある記』の2冊のグルメガイドを昭和5年12月・翌年1月と立て続けに上梓しております。しかしこの中には一平どころかスープ煮に関する記述はなく、本場東京のおでんに限るとも、逆に関東煮に軍配が上がるとも書かれておりませんでした。松崎天民は岡山出身で関東の味にはかなり厳しい人なのですが、大阪法善寺の「正弁丹吾」では<謂ふ所の関東煮の風味の、とても水ッぽく甘いのに失望した>なんて書いております。もっとも同店の名誉のために付け加えますと<あの竹の串にさしたおでん其のものには、無条件に降伏しなかったけれども、酒の美味いことには飛上るほど随喜した>そうでして、<少し熱燗に過ぎるけれども、おでんの鍋の前に立つて、赤貝や、バカ貝や、まぐろなどの小串を肴に、一杯二杯と傾ける気分は、大阪ならではの心地がした>と語っております。

 ちなみにこの2冊、今の誠文堂新光社の前身である誠文堂が発行した実用書シリーズで、1冊10銭という安さが売り物です。大きさは87×148mmで今の文庫をさらに2cmくらいスリムにした手帳サイズでして、なかなかモダンなデザインですね。『東京食べある記』は、コレクション・モダン都市文化のシリーズの『グルメ案内記』に『大東京うまい物食べある記 昭和八年版』ともども収録されておりますし、『京阪…』のほうは『大阪のモダニズム』に収録されておりますので、ご関心のある向きはどうぞ。もっともこのサイズからA5版に拡大して復刻しているので、文字がかすれているうえにずっしり重たくてちょっとしんどいです。

 グルメ気取りの天民はおでんにあんまり興味がないから、世のおでん屋さんがスープ煮かどうかなんてどうでもよかったのでしょうか。いやいやそれどころか彼こそは、私なんぞは足元にもおよばぬおでん伝道師であります。前々回紹介した『浅草底流記』では「舎人屋」の説明に続いてこんなふうに書かれております。

<いつか天民と一緒にこの屋台にかかったことがある。二人とも幾軒ものカフエーを飲み食ひして廻ったあげくの果てだのに、彼はうまいうまいと言つて茶めしを七杯まで、それも、まるで蟇(がま)が羽虫でも吸ひ込むやうにパクリ込んで曰く、「今夜はこれでいつもより少ない」と>

 それでは舎人屋は『東京食べある記』でべたぼめされているかというとさにあらず。屋台店では銀座松屋横の「山平」など広小路のちん屋の前の「壽」だのを挙げているのに、浅草の舎人屋には触れておりません。彼のおでんの合格ラインはかなり高そうです。

 実は天民は東京朝日新聞勤務時代におでんに関するコラムを書いております。1912年3月15日の朝刊ですからちょうど100年前ですね。

<…梅はポツポツ散り初(そ)めて、桜に早い十三日、天公何を憤(いか)ってか時ならぬもの降らしたり、地は白砂の銀世界とまでは化(な)らずとも、斯(か)かる夜ぞおでん屋は大繁盛▲お手軽西洋料理の屋台店増加して、江戸前の握り加減、山葵の利き塩梅を誇りとした鮨店は、大分その姿を没したが、代つてメキメキと殖(ふ)えて来たは、飲むにも食ふにも払うにも、万事お手軽で宜いと云ふおでん店、右党にも左利きにも>

 実に気持ちよさそうな名調子で、天民の面目躍如といったところですなあ。屋台のほかにもおでんの暖簾を掲げる小料理が増えてきたことや、夏は氷屋、冬はおでん屋に早替わりする店など、すべてを紹介したいところですが、それで終わってしまうのでつまみ食い。

<▲洋服を着た勤め人でも、印半纏着た労働者でも、おでんを好むに於いて同等なり、今より十年前までは礼服で山高帽で、おでんの八ツ頭でも頬張つて御覧あれ、忽ち近所界隈道行く人に、四の五のと取沙汰されたが、今は文明の有りがたさ>

<▲印半纏の兄い、安洋服の腰弁に隣して、紳士級に位すべき鼻髯の連中が、チビリチビリと遣(や)っている図は、正に日本の首都東京に於いてのみ、今日にして見られる光景なり、おでん決して卑しむべからず、おでん屋の商、決して軽蔑すべからず>

 当時の人々のちょっと屈折したおでん観がうかがえて面白いですね。まあ、日本料理店が払い下げた残り汁なんかを使っていれば当たり前ですが。礼服でおでん片手にご満悦ってのは現代でもちょっと違和感ありますが、この時代の園遊会では立ち食いできるということでおでんの模擬店が登場し始めています。お座敷おでんなんてのも現れまして、かつて下等な食べものと思われてきたおでんの地位がぐんぐん上昇してきた明治の末の空気を示す貴重な証言です。

 夜討ち朝駆け、日に夜を継いで働く新聞社社員にとって、深夜営業の屋台のおでんはありがたい存在でした。vol24の花の茶屋の回でもちょっと顔を出しました『おでんの話』によると、都新聞勤務時代の天民は(彼は大阪新報を皮切りに複数の新聞社を渡り歩いています)、夜の編集作業の合間に数寄屋橋の屋台「富可川」で1杯8銭か10銭の深川飯に舌つづみを打ったそうです(のちに屋台から小料理店まで成長したこの店、深川めしが名物だから「ふかがわ」っていう店名なわけ)。記者時代の苦労をともにしたおでんは天民にとって、美食云々以前に、思い出の詰まった料理だったわけです。

 さてこの小冊子『おでんの話』ですが、大正6年創業のおでん屋「富可川本店」主人の井上忠治郎(井上太四郎の親戚ではないですよ)が、昭和7年1月1日に店の15周年誌として出版したもの。もっとも井上両人は友達同士で、太四郎が発行した『弁当の話』にインスパイアされてこの本の発行を思い立ったようです。園遊会出店用の自家用車(ケータリングカーの走り?)や店の内装など、貴重な写真も載っていて興味深いです。天民の“「街頭味覚」の王者”はトリを務めております。

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<東京生活二十五年―空しく風塵に老を重ねて来たけれども、私の東京に於る味覚生活のスタートは、実におでん茶飯の屋台店であつた>

<星ヶ岡茶寮の珍味怪味に、一人前七八円、十円を惜しむ貧しい私は、四五十銭にして美味に満腹し得るおでんを探ねて、如何にこの歳月を、舌つづみを打つて来たことであらう>

 ほかにも太四郎や林春隆など、忠治郎の友人たちが文を寄せておりますが、中に日本料理研究会初代会長の三宅孤軒による貴重な証言があります。

<処(ところ)で、関西の「関東煮」と東京のおでんとは煮込む具合も、客に出し方も違つてゐたが近頃東京のおでんやは、段々上方式の鍋を使つて来た、だぶだぶと汁沢山の中に、種が浮いてゐるやうな煮方になつて。純東京式の方は、少なくなつて来たやうだ>

<鍋の中の煮つまる具合を見て、汁を加え、その次に鰹節を入れる、あの東京式の煮方の方が、おでん本来の味をよく出すと思ふが、それをしない店が多くなつたのは、翌日に持ち越した時に、品物の色が悪くなるのと、汁が濁つて困るからだそうだ>

 日本料理研究会は関西料理の東漸に対抗する形で発足した団体ですから、関西式のおでんに対する目は厳しいですが、道具や調理法に言及しているのはさすがというばかり。確かに昭和の初めにたっぷりの煮汁で煮るおでんが広まり始めたようですが、これはどうも調理法としては後ろ向きな姿勢で、おでん好きが感心するものではなかったのかもしれません。それであまりグルメガイドでは積極的に触れられていなかったのでしょうか。今のような味になるには、さらなる改良が必要だったのか。おでんの進化の過程は一般に思われているように簡単ではなさそうです。

 なお、『カフェー考現学』(これも著作選集で復刻されています)の作者であり、大阪毎日新聞を舞台に繁華街や貧民窟の社会探訪記事をものした村嶋歸之も、学生時代におでんに関する一文を雑誌に寄稿しております。こちらは復刻されていないのが残念。

<寒月雲より出で、行人の影法師地に印して明かに、下駄の音高く寒空に冴え返る大路の夜、吾れは四辻のおでん屋に立つの趣味を解す>

 天民のコラムの翌年に書かれた文章にしては大時代的。まだ早稲田大の学生で、若書きの文章ですから、ちょっと気負っておりますね。

<本郷の一高屋は、名の如く夜毎に集う白線帽の一高生多く、彼等は茲に酒抜きのおでんを喰うて腹を作り、デカンシヨンを高唱して本郷街に横行濶歩す。城北早稲田の近在にも多くのおでん屋あり。就中(なかんずく)神楽坂上のおでん屋は最も美味也。されど独り三田には多くのレストラントとカツフエーあれど未だ一軒のおでん屋を見ず。可惜(おしむべし)三田の健児、此の美味なる御芋の煮えたをお存じ無き也>

 早稲田の学生が慶応を揶揄しているのでちょっと割り引く必要がありそうですが、大正時代の学生とおでんの関係を示した生の証言で、これまたちょっと面白いですね。そういえば古本屋も本郷や早稲田には並んでおりますが、三田にはまったく見当たりません。これも同じ理由からなのでしょうか。

nonki.jpg なんだか本郷の古本屋、もといおでんやに行きたくなってまいりました。東大前の「呑喜」は明治20年創業で、汁たっぷりで煮た「改良おでん」で人気を博したそうです。
こっちの改良おでんは創業時からなんでしょうか?
昭和のスープ煮おでんの先駆けだったのでしょうか?
今日はGWの中日で白山通りもあんまり混んでないし、東大構内の新緑もきれいだし、湯島からちょっと足をのばしてみましょうか。

  
 

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投稿者 webmaster : 12:27