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2013年04月30日

料理本のソムリエ [vol.55 ]

【 vol.55】

戦後強くなったのは前菜と松花堂弁当志向

 前回、前菜の話をするはずが、山内金三郎のほうにぐいぐい反れていってしまいました。最後の最後でようやく戻ってきたぞお、というところで終わりましたので、続きです。

 魯山人の前菜は、器ひとつとっても特徴的です。彼が使ったような四角四面な陶器というのは、さらにさかのぼると尾形乾山に行き着きまして、器を色紙や短冊に見立て、乾山はそこに絵や書の筆をふるっています。しかし縁が欠けやすいので、作り手としても使い手としても経済面からいうとあまり歓迎したくない器形です。

 また4つの皿を組み合わせるというのも、なかなかに異端児。日本料理では盛り付けは奇数に揃えるのが一般的でして(2は別ですよ)、それが証拠に前回紹介した『あまカラ』の吉兆の前菜もあえて偶数を避けています。


 前菜   吉兆
 餅の花  川海老照焼
        みしほ胡瓜
        こがねいか
        うに餅花
 橙     すゞ子
 割       かす漬
 さん
 しょ
 五種   兵庫やきぬき
 さか    海老塩焼
 な     松葉かれ
       寒もろこ
         やはらか煮
       金柑甘煮
   膳松花堂好


 松花堂と印が捺してある縁高の右上のコーナーに盛り付けられているのは、川海老照焼、味塩胡瓜、黄金烏賊、雲丹餅花を柳らしき枝で串刺しにしたもの。正月の餅花に見立てた演出ですが(どうにも長くて真四角の空間にはちょっと納まりが悪いです)、料理は4種類なのに、わざわざ海老だけ2尾用意しまして、合計5つを刺しています。

 左上にはすず子(いくら)の粕漬を盛った割山椒形の橙釜。そして右下には兵庫産の焼き抜き(かまぼこの一種)、海老塩辛、金柑甘煮の3種類、左下には寒もろこ柔らか煮、松葉かれいの2種類を盛っているのですが、献立上は3+2の5種肴と称しております。

 ところが魯山人の前菜のほうは4(死)に通じる数を選んでおり、ちょっと違和感があります。これは何でも“対”にしたがる中国人の好みです。それもそのはずで、彼はデビュー当初、中国料理のよさを日本料理に取り込むというのがウリでした(これも前に書きましたね)。なにせ自分の発明した鯛料理に「白汁魚王」って名づけちゃう人ですから。和食と中華の折衷なんて、今でいうフュージョンの元祖ですな。

shiki_15.jpg 魯山人が中国料理を学んでいた件は、小社の『日本料理の四季』15号(1992年)で、吉田耕三氏(直弟子の一人で、魯山人伝の最初の執筆者です)が指摘しておりますし、吉田氏と仲の悪かった平野雅章氏も『魯山人料理控』(1994年)で、魯山人の中国かぶれに触れております。

<星岡茶寮の料理内容も、料理主任だった武山一太の回想談によれば、「やはり、中国風の料理でした。大体ね、中国料理から始まったんですよ。中国へ二度も三度も行っているでしょう、で、現地を見ているからね。それでフカのヒレだとか、キンコだとか、スッポンだとかね……」ということで、いわゆる“中国かぶれ”の一時期があった。のちには変貌して中国料理は嫌いだとは言うものの、当時は「中国なら牢屋でもいいと思ったことがある」というくらいの惚れ込みようだった>

この武山氏の発言はもともと『別冊太陽 北大路魯山人』(1983)に収録されているものなんですが、世に広まっていた魯山人のイメージと合わないせいか、その後の平野氏はこの件を声高に語ることはありませんでした。おかげさまで最近の不勉強なくせにお説教臭い魯山人マニアたちにいたっては、こんなこと夢にも思っていないでしょう。

 百聞は一見にしかず、ここで実例を挙げておきましょう。この間、大日本水産会の機関誌『水産界』の中で見つけた大正12(1923)年4月25日の「美食倶楽部」での献立です。会長、常務理事、水産講習所所長を迎えた宴席なので、魚づくしではありますが。


    食単 四月念五日晩
 一、小菜六珍 海鱧(はも)嫩芋、絲豆、仮西施舌(赤貝)薄醃鱒(ます)温魚(いわし)
 一、餅鯨汁椀(鯨のおばけ)
 一、大真歯(かれひのせびれの肉)
 一、比目扁魚酒洗(かれひ)
 一、腐脳羹(白子) 一、海鷂半汁(あかえひ)
 一、白汁魚王(鯛) 一、碧緑魚炒製(べらの天婦羅)
 一、蒪菜椀  一、食後珍果及飲料


 ね。やたらむつかしい漢字だらけで中国料理のメニューみたいでしょ? 献立ではなくて「食単」っていうのがそのまんま中国流だし。調理法までもがどこまで中国風だったかはわかりませんが、当時の魯山人の料理を食べた人の感想に、国際的だ、長崎料理みたいだと書かれていたのはむべなるかな、であります。

 こうしてみるとマスとタイはともかくとして、4月のハモやベラは時季がちょっと早いですねえ。それどころか食後の果物はスイカにブドウにビワにミカン、漬物はウリ、キュウリ、ナス、細根ダイコン、菜などの温室早成ものが用いられていました。初期の魯山人は味の素も使ってますし、世間様が思っていらっしゃるのとはだいぶ芸風が違います。

 おっと、それはともかく、この献立の最初に出てくるのが「前菜」ではなく「小菜」と書かれているのにご注目ください。これまた、まさしく中国料理の呼び方ですね。4種類ではなくて6種類ですが。魯山人のこの時季の献立では小菜が12種類というのもありまして、やはり偶数に徹しています。

 その後、魯山人の料理は中国色が薄まるとともに、オードブルの訳語の「前菜」が用いられるようになります。

<先づ最初に前菜と申すのを、出しますが、これは関西でやつてをりますつきだしと云ひますもので、東京では以前にはなかつたものであります。私共は美食倶楽部と云つた時代から、関西のつきだし風のものを前菜、又は小菜と呼んでやつてをりますので、東京の料理で前菜を付けましたのは、私共をもつて嚆矢と云ふべきと存じます。
 関西のつきだしはほんの一品でありますが、例へば普通ならばゑんどう豆とか上等になりますと、カラスミとか、一品出すのでありますが、私共の前菜を作る趣意は、別に前菜といふ料理をつくるのではなくして、料理をした色々の材料の端切、残りものをうまく利用して、風情あるものに、之を最初に供しますればあとの料理を供するのにゆとりが出来るといふやうな便宜もありますし、之は、もともとロシヤなどでやつて居ります一般欧州の料理でもさうですが、その風習を取り入れて、純日本風にやつて見ましたものです>

 これは昭和8(1933)年10月29日の「第二回日本風料理講習会」での魯山人の講演の筆記でして、自分が前菜を普及推進してきた第一人者と自負しておりました。

 ちょうど同じ頃の『日本料理研究会会報』(昭和8年10月号)の座談会では、日本料理で「前菜」が広まり始めたころの混乱が見てとれます。

小林清次郎 近頃前菜と云ふ言葉が流行るが何処から出たか。
渋谷利喜太郎 前菜は四なら四、五なら五残つて居る、それが前菜である、五なら五残つて居る、後にさかなが十色出るといふし、それで以つて最初三つ出て居ると後六品出ると言つた具合……。
小林梅吉 卓袱から出たらしい、卓袱の方で前菜と云ふことがある。
小林(清) 詰り前菜と云ふと日本の言葉ですね。
小林(梅) さうです。
渋谷 長崎が先ですね。

 渋谷利喜太郎は戦前の東京の日本料理界の重鎮なのですが、ちょっと説明がわからない。前菜が4品(偶数ですね…)出ると残りの料理は4品ある合図という意味なのでしょうか? それとも倍になる決まりで、最初に3品出ると残り6品ってことなんでしょうか??

 これまた重鎮の小林梅吉は渋谷翁の説明を軽くスルーして、卓袱(しっぽく)料理から来たものと言っています。渋谷翁もちゃっかり尻馬にのっておりますが、卓袱料理で出てくるのはやはり「小菜」であって、前菜ではありません。このクラスの料理人さんとなると「知らない」とは言えず、困ってしまったのかもしれませんね(笑)。研究会理事の小林清次郎氏は、恐らく洋食のオードブルとの関係が知りたかったのではないかと思うのですが、日本の言葉と聞いて安心したようです。

otooshitozensai.jpg 小社刊『お通しと前菜』(1983年)で小坂禎男氏は「お通しは、突き出しともいわれ、料理の始まる前に、まず出される酒の肴である。元来、壺と皿の二品を出したもので、壺は和えものや塩辛など汁気を含んだもの、皿はきすの焼いたのやくわい煎餅など乾いたもので、だいたい決まったものが多かった。(略)前菜はどちらかというと新しい料理形式で、昔はなかったものだ。料理の始めに、色や形に趣向をこらした一口大の料理を三品か五品盛り合わせたもので…」と述べていまして、やはり奇数にこだわってますね。

 ただし魯山人もいうように、関西にはもともと豊かな「突出し」の文化がありまして、さまざまな料理が考案されていました。大阪の日本料理の職人の団体である「京繁」は大正11(1922)年に『浪花料理集突出号』を出版しておりまして、昭和に入ったのちも改訂新版を出しておりました。

 また料理人さんに聞いた話ですが、魚すきで有名なミナミの「丸萬」では、入れ込みの席(小上がりに並べられたちゃぶ台で、複数のグループ客が食事するスタイルのことです。そば屋や居酒屋さんによくありますよね)に、突出しを入れた手提げを持った店員が回って、好きなものを選んで取ってもらっていたそうです。まるで香港の飲茶みたい。

 一方戦前の関東の料亭はといいますと、お通しとしては「座付吸い物」や「座付き菓子」なんてのが普通でした。席についたらまずは、ちょっと汁気のあるものや小さなお菓子でお腹を落ち着かせてもらうというものです。酒呑みの人は食事前に汁だの菓子だの食えるかいっと思うかもしれませんが、そもそも料亭は酔っ払うための場所ではないという考えが背景にあるのかもしれません。

 こんなふうに突出し=前菜の提供スタイルにもいろいろあったわけですが、戦後は華やかな盛り込みで提供することが多くなりました。魯山人が言っておりますように、最初に作りおきの料理を組み立てるだけで済む前菜を提供しますと、続く料理を作る時間をかせげます。ですから突出しは数が多いほうがあとあと楽なんですね。

 先ほど細かく見てきた昭和27(1952)年の吉兆の前菜なんですが、塩辛と金柑だなんて甘いものと辛いものが同居しています。前回紹介した昭和11(1936)年の大阪毎日新聞では日本料理は一品主義、いろんな味が盛り込まれるなんて眼移りしてしまってぶち壊しとまで言っていた湯木氏が、この頃にはオードブル盛り合わせ派に宗旨変えしています。

tsukidashi.jpg 湯木氏がこの記事中でも述べていたように、にぎやかな突出しは戦前からありましたが、それを推し進め、料理を餅花に見立てるというような演出でセンスよく盛り付けて、世の称賛を集めたのは吉兆さんが嚆矢でしょう。もしかしたら、GHQがよいお得意だった事情が生んだのかもしれません。彼らは味はわからなくとも、日本風な趣向の料理を喜びましたので。

 しかし、それ以上にこの可愛らしい料理に心を奪われたのはご婦人方だったと思います。戦前の料亭を利用するのは旦那衆で、接待や宴会の席と相場が決まっていましたが、戦後は昼に集まって食事をする婦人グループという新客層がぐんぐん台頭してきました。戦前、ご婦人同士の食事といえば、そばや甘味屋、百貨店の食堂あたりがお決まりだったのが、外食産業の大革命であります。

 松花堂弁当だってこの流れが生んだものですよね。恐らくは大正から昭和にかけて流行した大寄せの茶事(たくさんの出席者を集める、形式にとらわれない茶事)で、昼にたくさんの料理を出す知恵として点心を弁当形式で提供する方法が考え出され、それが戦後の料理屋の昼営業の定番商品となったのではないでしょうか。

 そもそも松花堂弁当の画期的な点は、4つの仕切りの中に器をはめこむことにあります。通常は4箇所ともではなくて、そのうちの2箇所くらい。器のはまってないところは汁気の出ない焼物や、「物相」という型で押し固めた御飯を入れたりします。

 これはよーく考えると変なことなのです。松花堂弁当は枡の一部は直接料理を盛る食器として使われ、一部は食器をはめる容器であるという、不思議な使われ方をしています。

 日本料理の盛り付けは、食器の上に食器をのせることを嫌います(最近は平気でやっている人も見かけますが、昔気質の料理人さんに怒られますよ)。だからわざわざ先の吉兆の前菜みたいに橙や柚子で釜を作るのでありまして、もし器を使うのでしたらせいぜい「つぼつぼ」といって、ごく小さい壺型の器に珍味を入れて縁高や平皿にのせるくらい(それも本来は、下に葉蘭や塩なぞを敷きます)。器の上に器をのせると安定が悪いし、高台の造りによっては傷をつけかねません。折敷だって塗りのものは布を張ったりして耐久性を高めていますよね。

 ところが松花堂弁当は平気で器をはめ込みます。温かくて汁気のある煮物と冷たい刺身を一緒に提供するのに便利なうえ、あらかじめたくさん盛り付けておいて、一気に組み合わせて提供することができます。おせちと一緒ですね。まあvol.51で述べたように上げ底になるうえ、見栄えもよくなるんですが(笑)。

 「弁当」といっても汁気があるうえに器がはまっているぶん重いので、幕の内のように持ち歩きができるわけではありません。ワンプレートランチとでもいうべきで、一品出しをせずとも会席料理をセンスよく提供できる。松花堂の器は八幡で生まれたものだとしても、松花堂弁当という提供スタイルを完成させ、普及させたのは湯木氏だとしたら、これだけで立派な功績だと思うんですけどね。事実をきちんと検証のうえ、顕彰してしかるべきでしょう。

 

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投稿者 webmaster : 18:13

2013年04月26日

『スイーツをネットショップで売りたいあなたへ』

15330.jpg『スイーツをネットショップで売りたいあなたへ』
全国12店のオーナーが明かす、
小さなお店で成功するための店づくり・商品・売り

著者:籏智優子
発行年月:2013年4月30日
判型:A5 頁数:200頁


 いきなりですが、著者である籏智優子さんの「あとがき」から引用します。

「まず取材をご快諾くださり、ネットショップ運営のノウハウを惜しみなく明かしてくださった、12店のオーナーのみなさまにお礼を申し上げます。ときにプライベートにも踏み込んだ数多くの質問に、誠実にお答えくださったみなさまのご厚意がなければ、この本はつくれませんでした。ほんとうにありがとうございました。」


 取材時は、事前に質問を書き出しておくのが籏智さんのスタイルです。
質問リストは、毎回A4のレポート用紙4枚から5枚にぎっしり。
1行1行、手元のリストを確認しながら質問を重ねる籏智さん。
小柄で愛らしい姿に反し(?!)、すべての質問を聞き終わるまで話し手から注意をそらさない粘り強さは、まるでベテラン刑事のようでした。

そうしてひとつひとつ積み重ねたディテールが、
本書の充実した内容に結実していると思います。

長丁場の取材にお忙しいなか対応いただいたオーナーのみなさまには、
ほんとうに頭が上がりません。改めまして、ありがとうございました。


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 また、質問内容も通常の店づくりだけでなく、お金のこと、オンオフのバランスなど、“舞台裏”まで、多岐にわたりました。これだけ根掘り葉掘りお伺いしたのは、読者のみなさんが、“ネットショップを営む自分”を具体的にイメージできる本にしたかったからです。

独立前には、つくりたい店や売りたい商品のイメージをもつことが必須ですが、同時に「開業後、どんな生活が待っているのか?」という点も気になるところではないでしょうか。

実店舗をもつ場合と、生活は変わってくるのだろうか?
店から出ても、24時間仕事漬け?
住む場所や食事の時間は?
赤字にならずにやっていけるだろうか? 

 本書にご登場いただいたネットショップのなかには、月商2万円のお店もあれば年商2億円のお店もあります。ひとりで、拡大せずに自分の納得できるお菓子づくりを追求するお店もあれば、何人ものスタッフとともに、成長をめざすお店もあります。

これらの幅広い事例は、上記に挙げた疑問へのひとつの回答となるでしょう。
ただ当然ながら、「これが正しい」といえるお店の運営法はありません。

本書に登場する12人の店づくりは、あくまでもご本人の理想とする店のかたち、ライフスタイルに合わせて編み出したもの。お店の規模も商品構成も立地も成長ペースも、それぞれに違ってよいのです。
そして、これだけの多様なスタイルを許容できることこそが、ネットショップの限りない可能性を示していると思います。

読者の方が、“自分だけのお店”のかたちを見極めるために、
本書がお役に立てばとても嬉しいです。

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投稿者 webmaster : 09:54

2013年04月18日

『専門料理2013年5月号』 編集後記より

131305.jpg『専門料理2013年5月号』
発行年月:2013年4月19日
判型:A4変 頁数:156頁


特集:ビストロを30年続けるためには

            
「パリ、東京、大阪の老舗ビストロから、長年愛されるための秘訣を探ります」
「新たなスタイルを模索する新店オーナーの個性あふれる店作りも紹介!」


moon_1.jpg 今月号の特集は「ビストロを30年続けるためには」。パリ、東京、大阪で長年に渡って愛される老舗店を取材し、その秘訣を探りました。

sun_2.jpg パリは、1924年創業の「シェ・ラミ・ルイ」と1938年創業の「ビストロ・メラック」の2店。前者はパリでも1、2を争う老舗有名店だから、足を運んだことのある読者も多いかもしれないね。ビストロとはいえ、高品質の食材を使っていて、星付きレストラン並みの価格もまた有名です。

moon_1.jpg 90年続いているわけだけれど、先代の名物オーナーが亡くなった直後は、多少客足が遠のいたらしい。それでも、現オーナーが前と同じスタイルを頑なに守っているうちに、お客が戻ってきたんだって。

sun_1.jpg 内装も重厚で歴史を感じさせるよね。まさに本場フランスの老舗ビストロ! という感じ。店内の写真は表紙にも使わせてもらいました。

moon_1.jpg 一方のビストロ・メラックは、口ひげがトレードマークの名物オーナーによる店。故郷のアヴェロンの田舎料理とメラック家の料理を今に伝えています。

sun_1.jpg 2店に共通するのは、貫禄のあるオーナーがいて、時代が変わろうとそのスタイルを守っているということ。“変えない”ことで、唯一無二の個性を生んでいるわけだね。

moon_1.jpg 日本の老舗ビストロは、東京・乃木坂の「シェ・ピエール」と大阪・我孫子の「フレンチ食堂 エスカルゴ」。シェ・ピエールは1968年に製パン技術者として来日したピエールさんが、40年前に開いた店です

sun_1.jpg 当時、日本でフランス料理といえばホテルという時代。ピエールさんはカウンターを作って食材や料理を説明して、少しずつビストロ文化を広めていったんだって。

moon_2.jpg フレンチ食堂 エスカルゴは、25年前に、当時24歳だった藤原一良さんが開いたビストロ。これまで続けてこられたのは、「エスカルゴのオーブン焼きという看板料理があったから」と話してくれました。ちなみに三重・松阪のエスカルゴ牧場のエスカルゴを主に使っているそうです。

sun_1.jpg 新しいビストロも続々オープンしています! その中でも、自らのスタイルを追求し、長く愛されるビストロをめざす3人を取材しました。

moon_1.jpg 自然派ワインを数多く揃える「ル・ヴェール・ヴォレ・ア・東京」、ボリューム満点の料理で連日満席が続く「リベルタン」、そしてステーキが売りの「ル キャトーズィエム」。みな明確なコンセプトをもっていたね。

sun_2.jpg 印象的だったのは、リベルタンのオーナーシェフ、紫藤喜則さんの言葉。「まずはスタッフが楽しまないと、お客さんも楽しめない。厨房からどなり声が聞こえてくるような店では、安心して楽しめませんよね」だって。確かにそうですよね。


ビストロの定番料理20品と、気鋭シェフによる “自分流” の品


sun_1.jpg ビストロと言えば、思い浮かぶのは骨太な定番料理の数々。本特集では人気店の定番料理を20品集めて掲載しました!

moon_1.jpg リヨン風サラダにパテ・ド・カンパーニュ、ブーダン・ノワールにクネル……どれもビストロには欠かせない料理だからこそ、お客を惹きつけている人気店のレシピを参考にして、ブラッシュアップを重ねてほしいと思います。

sun_2.jpg また、こうしたビストロの定番料理をガストロノミーレストランのシェフが作ったら……という発想で企画したのが「ビストロ料理を自分流に」。生江史伸シェフ(レフェルヴェソンス)と宮崎慎太郎シェフ(オー グー ドゥ ジュール ヌーヴェルエール)の2人の気鋭シェフによる7品は、驚きに満ちていました。

moon_1.jpg ビストロ料理は「多くの人に愛される安心感のある味わい」、ガストロノミー料理は「シェフの個性が表れた驚きと発見のある味わい」――この企画を通し、改めてそんなことを感じました。

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投稿者 webmaster : 10:01

2013年04月16日

『シンプルでも素材らしく』

06166.jpg[イデミスギノ] 杉野英実のスイーツ
『シンプルでも素材らしく』

著者:杉野英実
発行年月:2013年4月19日
判型:B5変 頁数:88頁

簡単につくれても杉野流にこだわる!

撮影をスタートする何カ月か前のこと、試作品が何品かできたというので杉野シェフのお店「イデミ スギノ」に行きました。

fure.jpgまずは、イチゴとオレンジに白ワインなどを加えてつくった色鮮やかなカクテル「フレゼット」をいただきました。

そのカクテルのおいしかったこと!
修業先のスイスのレストランでアペリティフ(食前酒)として出していたものだそうです。

味はいいけれど商品としてはそのまま使えない形の悪いフルーツなどを利用したもので、フレッシュフルーツをふんだんに使った「デザート」のような味わいで、レストランでもめったにお目にかかれない味でした。


marine.jpg次に出てきたのは
パイナップルとライムのマリネです。

砂糖とライムとキルシュでマリネしただけなのに、パイナップルがライムの香りをまとって、まるで優雅な香水をつけた貴婦人のような上品な味に変化していました。


こうした素材の組合せこそが 「杉野マジック」 なのです。


かつて『素材より素材らしく』の撮影時に試食したイチジクのタルトレットを思い出します。茫洋とした味わいのイチジクが砂糖とキルシュでマリネすることでその味の輪郭がくっきりと浮き上がってきたのです。

この本では、そんな驚きのある味わいの「パーツ」をとり出し、シンプルだけれど杉野さんらしいスイーツに仕立ててほしいと願っていました。その感動を読者にも伝えたいと考えていたからです。

それからもうひとつ。
序文にも書かれていることですが、杉野さんは素材を替えてもおいしく仕上がるレシピであるようにと意識してつくっています。

それは自分がお菓子をつくる時に素材を替えてつくる中で新しい味の発見をしてきたからで、読者にもそんな体験をしてもらいたいと考えているからです。


siroop.jpgたとえば冷凍カシスのシロップ煮が、カシスじゃなくてブルーベリーだったらどうなるか。その味の変化を感じてほしいというのです。
複雑にカチッと組まれたレシピでは、この追体験はむずかしい。シンプルだからこそ素材の組合せから生まれる驚きある味もわかるし、簡単だからこそ何回もつくることができます。

実は担当である私も編集にあたって何品か試作しました。
料理はつくっても、お菓子はほとんどつくりません。でも何品もつくることができました。

シンプルだけれどポイントはあります。

chuiru.jpg冷凍ベリーのシロップ煮はベリーによってはレモン汁を加えたほうがいいなと思ったり、また、チュイルは1ミリの厚さの違いで食感が変わったり。
つくって食べて感じ、ポイントをさぐりながら自分でおいしい味を求めるのは楽しい作業です。
楽しいのは、「想像力が広がる」レシピだからです。
何度もつくりたくなるのです。次は少し工夫して、と。


sugino.jpgそれもこれも、日頃お菓子をつくらない読者にもできる簡単なレシピだからこそできること。そして、杉野さんの力のあるレシピだからこそ楽しくなるのだと思います。

「簡単なだけ」ではつまらない。

杉野マジックで簡単でおいしいデザートをつくるだけでなく、おいしさを追求するお菓子づくりの楽しさも味わっていただければと思います。


06166_1.jpg


*** 杉野英実さんの本 好評発売中!! ************

05812.jpg『杉野英実の菓子 素材より素材らしく』
発行年月:1998年11月5日
判型:B5 頁数:216頁

05938.jpg『杉野英実のデザートブック』
発行年月:2003年12月15日
判型:B5 頁数:108頁

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投稿者 webmaster : 13:21

2013年04月10日

料理本のソムリエ [vol.54]

【 vol.54】

弁当の蓋を開けたら前菜が?

 前回のブログを読んで、「大阪くんだりまでして公園で探偵ごっこかい? まったくいいご身分だねえ」なんて思われたそこのあなた! 誤解、誤解ですよー。めっそうもありません、ちゃんと仕事はしてますからねっ。我々の取材は料理店さんのアイドルタイムに集中するので、変な時間帯がぽこっとひまになることがあるんです。あの日は夕方にまたミナミの取材先まで戻って、寝台列車で帰ったんですからね。夜は大阪の味の勉強と称して、著者とお寿司とおでんで飲んでたのはここだけの話ですぞ。

 ここんとこタイトなスケジュールで動いているのは、会社のフロアの大規模なレイアウト変更があるため本を棚から出したり箱に詰めたり台車で運んだり腰を痛めたりしていたのと、今月発売の『月刊専門料理』に出張コラムを1本書いてたせいもありまして。修業中の若い料理人さんに向けて、役立つ本を12冊薦めるという企画です。独立開業特集号だと聞いてたもんで、てっきり修業を終えたオーナーシェフ向けの本を案内するのと勘違いしてたこともあり、時間切れでなんだか不完全燃焼な仕上がりになっちゃった。どっかのブログで紹介済みの本やこれから取り上げようと思っていた本も混じっているうえ、終始マジメを気取っております。そのくせ相変わらずみっちりぎゅう詰めで、これから料理本に親しもうっていう人には文字だらけで不親切……。

senmon_1304_2.jpg


 くよくよ言い訳するのはこれくらいにして、本題へ。前回のWikipediaの松花堂弁当の項ですが、<その後、毎日新聞が<吉兆前菜>として取り上げたことで話題となり、松花堂弁当の名が広まった。>という部分の考証がまだでしたね(われながらしつこいね)。この一文はvol.52で引用した『吉兆味ばなし』の記述に基づくものと思われますが、出典が正確ではありません。『吉兆湯木貞一』によると、この記事は昭和11(1936)年2月20日の大阪毎日新聞に掲載されたものなんだそうです。さっそく見てみますと「洋食・和食を通じてこの頃“前菜時代”です」と銘打って、大阪ガスビル食堂の鈴木吉蔵料理長が洋食のオードブルについて、湯木氏が和食の前菜について説明しておりました。

<飲み屋などで銚子一本につき出しの小皿をたくさん出してお客さんを喜ばす、つまり前菜を賑わすといふことが流行つてゐます。これは酒のサカナが少しづゝ数多くが好ましいといふ酒飲みの心理に投じた戦法で…(略)…しかし本当の日本料理の立て前からいへばオードウブルはあくまで一品主義でありたいもので、これが日本料理の最高位である懐石料理が西洋趣味と本質的に違ふところです、酸、甘、鹹味を一時に出す方法は美味求真的な心から眼迷ひさせて純日本的な食卓では気持のブチ壊しとなります。

 だからつき出しでもやはり力のある風味の籠つた料理を落ついて味ふといふのがあくまで日本料理の前菜の行き方でありたいと思ひます、もつとも一品だけであまり淋しいといふ場合趣味のある容器、たとへば松花堂が薬箱に使つたといふ春慶塗の蓋ものなどに、昨今だと小鯛の塩辛、若鮎の黄身ずし、嫁菜の浸し、蛤田楽などをとり合せてオードウブルのセツトがはりに出すなどといつた方法がいゝと思ひます>

 昭和11年の時点で湯木氏は、春慶塗りの四つ切り箱を4種盛りの前菜に使うことを提案していたのには注意が必要ですね。昭和8年には弁当箱として使い始めたが、飽きて前菜にも使うことにしたのかしら? 前菜を盛る場合にも貴志邸に挨拶に行ったのかしら? そもそもこの記事から、何がどうなって松花堂弁当という名で広まっちゃったのかしら?

 戦後もこのスタイルで提供する前菜は続いたようでして、『あまカラ』(現在出版されているグルメガイド雑誌じゃないですよ)の6号(1952年2月)では、山内金三郎がイラスト付きで松花堂弁当(前菜を盛る場合は縁高と呼んだほうがふさわしいですね)に盛られた吉兆の前菜を紹介しています。

 山内金三郎は「神斧」「吾八」と号しておりまして、民具のおもちゃコレクターであり、ギャラリーや古書店経営、雑誌編集もしておりました文化人です。そういえば彼が編集長をしていた雑誌の文面に対し、魯山人が激怒した手紙が3年前に見つかってニュースになりましたね。朝日や毎日は大阪本社版のみですが、読売は全国紙でも扱っておりました。

<43年10月にも開催予定だったが、同社の広報誌の記事に引用された「(戦時中という)時節柄、どんなよいものでも高くてはいかん。(中略)少しでも安く売るやうにし給へ」との小林の言葉に魯山人が激怒。10月9日付で「安くて買(かえ)ると云ふハ金高之問題なりや実貨価値を論するものなりや」などとする手紙を書き、送りつけた。

 また、同17日付の手紙では、「づに乗って馬鹿になり切つた」「猪口才にして笑止千万」「意思の疎通絶無」と記事を執筆した編集長を罵倒。「これが貴下のお気に入ってゐるとあつては摩訶不思議」などと小林を責め、展覧会中止とわび状の提出を申し入れている。以降の手紙はなく、同展が開催されたか否かも不明という。>(読売新聞2010年10月9日朝刊)

rosanjin_06132_5.jpg 記事の前半をはしょったのでちょっと補足しますと、この手紙は阪急グループ総裁の小林一三(逸翁)宛てでして、逸翁美術館の建替えで未整理の書簡の中から見つかったものです。問題の雑誌編集部は阪急百貨店内にありましたが、広報誌ではなく美術雑誌でして、『美術・工芸』の昭和18(1943)年10月号。阪急百貨店で開かれる魯山人の作品展の予告の最後に、<肝入りの一人である小林逸翁も『時節柄、どんなよいものでも高くてはいかん。世話人とよく相談して、少しでも安く売るやうにし給へ。それなら僕も大賛成だ』といつてゐられました。今度の展覧会はその趣旨に従つたものです>と一言載せたのがことの発端でした。アッツ島で日本軍が玉砕し、配給が滞りはじめ、国が統制する“国民食器”が使われていた頃ですから、贅沢品販売とにらまれてもおかしくありません。そこで余計な気を遣ったばっかりに、我輩のすんばらしい芸術をなんと心得ておるのかと烈火のごとくお怒りになったようです。

 先の読売新聞の書きようだと、時局におもねる百貨店の俗物編集長に魯山人大先生がお目玉を食らわせたように見えますが、当時の山内は阪急美術部の嘱託で、昭和14(1939)年に銀座のギャラリーで開かれた魯山人の画展には、竹内栖鳳に東郷青児、長谷川伸に森田たま、根津嘉一郎に小林一三といった文化人、財界人のお歴々と並んで推薦文を寄せていたくらいですから、それを頭に入れて読んでみるとちょっと受け止め方が違ってきます。

 そもそも山内は東京美術学校の卒業生でして、梶田半古の弟子。小林古径ら京都画壇との交流もあり、明治の末には美術店「吾八」を経営し、大正時代にはおもちゃの版画集『寿々』を出版しています(20年ほど前にオリジナルの版木を使った復刻本が出ています。すごく贅沢な造りです)。こうしてみるとちょっと魯山人とかぶるところがありますね。

 のちにその画力が買われて「主婦之友」社に入社したのですが、文化人に顔が広いのと企画力があるので編集者としてもめきめき頭角を現します。同社が公募した社章の審査員を務めたり、絵画も陶芸も染色もこなす市井の天才芸術家(魯山人のことではありませんよ)の藤井達吉と旅行したときの記事を雑誌に掲載したりと、これまた多才に活躍し、最後は事業部長を務めました。彼が主婦之友社に入ってしばらくして、同誌にデビューしたての魯山人が文章を寄せていますから、その当時から面識があったかもしれません。

 なお彼は、全国の菓子を集めた画文集『甘辛画譜』の著者であり、食通としても知られておりました。じゃなきゃ『あまカラ』に連載なんて持てないものね。『新修茶道全集』(1951年)の懐石の巻の編集を担当しております。

<「懐石編」のとりまとめに、編集者の立場から少し蛇足を加へてみますと、懐石などといふものは、それ自体が実際的なものであり、実用的なものなので、いたづらに理論に流れたり、高踏ぶつた文献の解説に終始するやうなことは仕度くないと思ひました>

rosanjin_06132_6.jpg とは同書月報中の彼の弁であります。確かに戦前の昭和16(1941)年に刊行された『茶道全集』懐石編(戦後復刻もされました)と比較すると、前回登場した木津宗泉以外の執筆陣を一新。魯山人もバッサリはずされて、代わりに辻嘉一氏や湯木貞一氏が加わっております。ちなみに辻嘉一氏は、例の問題になった『美術・工芸』の翌11月号にビルマ戦線からレポートを送っておりまして、当時から親しい間柄だったようです。

 このように、主婦之友から阪急グループに移ったのちも、山内の手腕は衰えませんでした。数々の展示会を手がけ、『武者の小路』昭和13(1938)年11月号で<山内さんは次から次へと絶間なしに催物をやつてゐられるが、どれもこれもヒツトするには敬服させられる。兎に角山内さんは阪急の儲け大将だ>と絶賛されるほど。魯山人の手紙の中の<これが貴下のお気に入ってゐるとあつては摩訶不思議>というセリフはこうした背景に基づくものです。もしかしたら魯山人は、やっかみや山内に認められたい気持ちもあってちょっかいを出したんじゃないかしら? なにしろ彼は、柳宗悦にも手紙でからんだ前科がありますからねえ。それに魯山人は山内本人にもくどくど文句を書きたてた手紙を出しておりまして、それが4年前の夏の古書展で売りに出されておりました。出品者は昭和15年と27年の手紙と推定していましたが、一部はこの一件に関するものかもしれません。

 ちなみに魯山人は戦後に、先の『あまカラ』誌上でも一騒動やらかしております。12号と13号(1952年8・9月)で行なわれた「甘辛往来」というアンケート企画に対し、<私ハ一生涯かゝつても申上げられない程の話をもつてゐますから、記者の上京の際でも御立寄り下さいお話します>と偉そう…じゃなかった堂々と答えました魯山人先生。その後、編集部からなしのつぶてだったのにしびれをきらしたのか、この企画に対しまして編集部宛てに貴重なご意見を送られました。<(略)…直接物の味のことばかり言つて、其の背後に大きな役割を持つてゐる「美」の支配力には甘辛往来回答者は無関心である。この点甚だ物足りない回答で満ちたことを嘆いてゐる次第だ>と憂いていらっしゃいます。そして親切にも各コメントの感想を寄せて下さり、一挙掲載されました。

 でもねえ、このアンケート企画は(1)わが家で好んで食べる料理、自慢料理、(2)好きな外食とその店、てな実にありふれたお題でして、そんなに力こぶを作って答えるほどのものかしら。たとえば小林一三の回答は<(1)ハンペンのテリ焼、ブリの一塩、塩鮭のヤイたの等、田舎ものゝ趣味也。(オオはずかしや)(2)京都大市のスツポン>。これをご覧になった魯山人は<(1)最も恵れない一人である。諸事貧乏性に出来た人、血色が悪い、シワが多い所以である。(2)不老長寿が狙ひでせう>とあんまり美しくない言葉でお嘆きになっています。

 山内金三郎はといえば、(1)が菜園のナスの油炒めを生姜醤油で食べる、庭のタケノコで作った筍飯、妻の柿の葉すし、(2)は戦後復活した美々卯のそばと答えているのですが、これに対しては<(1)油で炒めるのは、歳より若い味覚。筍は敢て飯とは限らない。柿の葉すし、多分よささうである。(2)大阪でそばは大したことはあるまい。尤も東京でも旨いのはないが>ですって。

 中には<かれこれ及第。あなたは少し分かるらしい>なんておほめの言葉を頂戴した人もおりますが、<三等食道楽><マヅイ物をあさる食通のやうに聞えます><(1)も(2)も味覚に天分の無い人を明かにしてゐます。そのくせラジオの食物対談に出られるが>なんて誹謗中傷も…。こんな調子で49人の回答について逐一批評しています。なんだかグルメ気取りのブロガーみたい。そのうえよーく見てみると、料理通として知られていた本山荻舟や山本嘉次郎、裏千家の井口海仙、友人の菊岡久利や大阪星岡茶寮のパトロンだった志方勢七らの回答には、いっさい触れていないのはどうしてかしら?

 その後、この手紙の論調に気分を害した読者の投書を掲載したり、パリ滞在中の魯山人のふるまいを大岡昇平が暴露する「巴里の酢豆腐」(例のトゥール・ダルジャンで醤油と粉ワサビで鴨を食べた話です。タイトルからわかるように知ったかぶりを描写する内容なんですが、世間一般ではなぜか魯山人が食通ぶりを発揮した逸話に脳内変換されています)を掲載したりと、『あまカラ』編集部はなかなか人が悪いですね。

rosanjin_06132_4.jpg おっとあんまり揶揄すると魯山人先生と変わらなくなっちゃう。最後にちょっとほめておきましょう。4つに分かれた器で提供する前菜に話を戻しますとね、賢明な読者諸氏はお気づきかと思いますが、vol.5vol.25でも書きました通り、これってとっくのとうに魯山人が提供していたスタイルでしたよね。このオリジナルの器に盛った前菜こそが星岡茶寮の名物料理でして、日本料理の前菜は自分の発明であると自慢しておりました。

 Wikiの錚々たる執筆陣はさておき、吉兆開業前から魯山人に傾倒していて、星岡茶寮で修業するのが夢だったという湯木貞一氏がそれを知らないわけがありません。ただし、魯山人の前菜の器は、四角の陶器を組み合わせてひとつの盆にまとめたものですから、松花堂縁高の前菜はそのまんま真似たわけではないのですが、多分に意識はしていたでしょう。

 また吉兆では、薬味入れみたいな浅くて四角い皿が6つ(2行3列です)つながった状態で焼かれた「絵の具皿」もオリジナルの器として有名でして、こちらも前菜や刺身を盛るのに用いられています。これまた魯山人の前菜をリスペクトしたものではないのでしょうか。


  

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投稿者 webmaster : 16:08

2013年04月03日

『イタリア料理基本用語』

35343.jpg『イタリア料理基本用語』
― 伊和篇・和伊篇・テーマ別篇で使いやすい ―

辻調理師専門学校:監修
近藤乃里子、合田達子、正戸あゆみ:著
発行年月:2013年4月4日
判型:四六版 頁数:288頁


編集作業中、著者の先生方からは、

「この表現ではイタリア料理初心者の読者にはわからないと思う」

「いちいち書くのはちょっとうるさいかもしれないけれど、
 初心者にとっては必要ではないか」

「見たことのない人にはイラストがあったほうがいいと思う」

「このイラストでは初心者は誤解するかもしれない」、

そういう言葉が頻繁に発せられました。

日頃、実際に学生さんたちと接しておられる先生方だけに、
これからイタリア料理を勉強しようという人にとって、
わかりづらい点、間違いやすい点はどういうところかをよく把握しておられ、
常にそれを念頭において原稿を書かれていたのが印象的でした。

用語の取捨選択から始まり、どこまで丁寧に説明するか、
逆にどこまで省いて説明するかを、
初心者の立場から、現場の立場から、悩みぬいて完成したのが本書です。

それだけに、ひいたあと疑問が残らない、
かゆいところに手が届く1冊に仕上がっていると思います。

机の上で勉強するというよりも、常に携行して、
あるいはレストランや店の現場に1冊置いて、
いつでもさっと見ることができる──そんな使い方をしてほしい本です。

特にイタリアへ旅行や修業に行かれる時には必携。
バールで、トラットリーアで、食料品店で、きっと役に立つはずです。

空きスペースに、自分でびっしりメモを書き込むくらいの、
ノート的な使い方をしてもらえると嬉しいです。
空スペースがなくなった頃にはきっと、
辞典なんかなくても楽勝 ♪♪♪ というくらいイタリア語が上達していることでしょう。
もしまだ不十分という方がいましたら、もう1冊買ってください!(笑)。


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投稿者 webmaster : 15:45