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2010年06月23日

料理本のソムリエ [ vo.5 ]

【 vol.5 】
魯山人先生、築地へ行く

 ある魯山人本に、北大路魯山人は美食倶楽部時代に、築地へみずから足を運んで魚を仕入れていた、という記述がありました。前回申し上げた築地信仰のよい例でして、もうどこから突っ込んでよいものやらわかりません…。

 まず第一に、魯山人が美食倶楽部を開いていたのは大正時代ですから、魚河岸といえば日本橋のこと。美食倶楽部があったのはそこから1kmも離れていない京橋東仲町です。まあ、これは誰にでもわかるケアレスミスですが。
 問題は、魯山人が魚河岸へ足を運んだ事実をどう解釈するかです。市場に足を運ぶのをおっくうがる凡百の料理人と比べて、さすが魯山人先生は偉かった、とおっしゃりたいようなのですが、そんな現代感覚で簡単に物事を解釈してもらっちゃ困ります。

ajikanade.jpg というのも、東京の料理人さんの回顧録を見ると、料亭の魚の仕入れは店の主人、すなわち経営者の担当で、料理長は市場に行く習慣はないとあるんです。
小社の『味を奏でる人たち』は、15人の料理長の修業時代の話をまとめたものですが(その中には、短い時期ですが魯山人のいた星岡茶寮も体験している桑原清二氏も登場します)、この本の中で銀座「松本楼」に務めていた宮澤退助氏は、主人が包丁を握ることの多い関西は別として、「料理人が河岸に行くようになったのは戦後のことじゃないでしょうか」とまで語っております。もちろんこれは高級料亭の話でして、小料理屋や食堂では話が別だと思いますが…。

 市場は現金支払いですから、財布を握る者でなければ相手にしません。とはいえ雇い人に大金を預けた日には、ピンハネされないとも限らない。経営者は胴巻きに現金を入れて羽二重姿で市場に向かい、高級魚を扱う上物屋の帳場で仕払って、荷物は見習いの若い料理人が潮待茶屋から大八車で持ち帰るというのが通常の仕入れスタイルだったようです。実際、戦前の経営者座談会を読むと、せっかく自分が仕入れた魚に対して「こんなもの仕入れやがって使えやしない」と料理長に陰口を叩かれるのが、しゃくに障ると嘆いています。
 その点、美食倶楽部の経営は友人の中村竹四郎と共同ですから、魯山人は経営者といえなくもありません。主人みずから包丁を持つ「板前割烹」という業態が広がったのは大震災以降ですから、魯山人のような存在は珍しかったかもしれません。

 それでは築地市場が仮営業を始めた昭和の初め、すなわち星岡茶寮時代の魯山人はどうしていたかというと、昭和6年の料理雑誌で市場関係者が証言しています(匿名記事なのですが、私は前回紹介した『魚河岸怪物伝』に登場する長谷川秀雄とにらんでいます)。 
星岡茶寮は前の晩に問屋に電話注文して翌朝届け、品物の鑑定は問屋まかせという「大名買い」の代表例。とにかくその日に河岸にあるものの一流品を選んで、これ以上の物はございませんと言って届けなければ気に入らない。問屋としてはいいお得意様だが、高くつくので見方によっては下手な買出しだと、見切られております。
 ちなみにこの記事では、主人なり店の目利きのできるスタッフなりが買い出しにきて、一渡り河岸中の品物と相場を見て歩いて大勢を見定めたうえで行きつけの問屋で買うのを「健実買い」、あちこち河岸をうろうろあさって、とにかく安いものを買うのを「素人買い」と呼んでおり、健実買いをする主人の店を好意的に紹介しています。

nihonryorishiki4.jpg もっともこの暴露記事に恥じたのか、星岡茶寮の仕入れはその後、料理主任の担当となったようです。昭和10年頃に星岡茶寮主任となった松浦沖太氏は、「日本料理の四季」4号のインタビューによると、大抜擢されたときの魯山人の決めゼリフが「明朝から買出しに行け」だったそうです。またある時松浦氏は、魯山人に「毎日買出しに、どんな気持ちで行っているのか」と尋ねられ、「新鮮でいいものを買うようにしています」と答えたところ、「それは当たり前だよ、俺だったらその日の天気を考えてものを買うよ」と教えられたそうです。

 北鎌倉住まいで夜にならないと店に来なかった魯山人ですが、たまには築地に行くこともありました。昭和11年4月21日に、星岡茶寮で発行していた機関誌『星岡』のスタッフと松浦氏を連れて、自動車で築地に通うのは自分が初めてだろうと自慢たっぷりに案内しております。松浦氏は以前も魯山人とともに築地に来たことがあるようで、魯山人はすぐに人込みの中にまぎれて姿が見えなくなってしまうのだとか。松浦氏が料理主任になったのは21歳の若さですから、初めのうちは魯山人が付き添ったのかもしれません。
hoshioka67.jpg まあ、こんなふうに最近の魯山人に関する文章は時代背景をまったく無視して書かれているので、実に的はずれ。
そもそも魯山人唯一の料理本『春夏秋冬 魯山人の料理王国』は、かつて発表した文章を昭和30年頃にかなり書き改めたうえで一冊にまとめたものなのですが、初出一覧でその旨を断っていないため、一部は星岡茶寮時代に書かれた文として通用しています。

『魯山人著作集』に至っては、オリジナルの戦前発表の文と変更後の単行本の文を両方とも収録したあげく、どちらも初出は同じ雑誌としています。読めば似たような話が二回でてくるので、誰か気づきそうなものですが…。『魯山人の料理王国』は新装版が別の出版社から出たり、『魯山人味道』に収録されたり、文庫化されたりと、注意書きをつける機会は何度となくあったのですが、いつまで経っても改善されません。

 おかげで美食倶楽部や星岡茶寮の料理がどんなものだったかは、正しく認識されていません。その最たるものが、日本料理店が料理を一品ずつ提供するのは魯山人が始めたものという俗説です。一品出しの提供スタイルは江戸時代の料理本『即席料理素人包丁』にすら見ることができるのですが…。
 すべての料理を膳や懸盤に盛りつけて、いっせいに客の人数分を運ぶには、それなりの広さの盛り付け台と大人数の仲居さんが必要です。それにこの手法だと、いったん料理を運んだら次は膳を引くまで仕事がありません。花嫁修業目的の奉公人をたくさん抱えた大名屋敷じゃあるまいし、人材派遣所から日雇いで仲居さんを雇うようになった明治大正時代、人件費がかかって仕方ありません。

 そもそも魯山人が一品出しを創始したとしたら、普通と異なる提供法に仰天した客があちこちに書き残すでしょうが、そんなものは見たことがありません。当時書かれた星岡茶寮の評判を総合すると、「前菜」という提供スタイル、中国料理と日本料理の折衷を図った国際色あふれる料理、果物を多用するハイカラなデザートの3点が、よそと違って珍しかったようです。そのほか書家として、その日の献立を書いて客に配るサービスを行なった点(もっとも後にはスタッフに代筆させるようになりましたが)、陶芸家としては、大ぶりの鉢やまな板皿を焼き、それを食器に使用したという点もみのがせない特徴です。

 魯山人の前菜は、4つの四角い皿を組み合わせ、おばんざい風の料理を盛ったもので、今の日本料理の前菜や先付とはかなり雰囲気が違います。この“偶数の小皿盛り”というスタイルはむしろ中国の江南料理の前菜に近い。そもそも彼は友人の樫田十次郎の奥さんが主催する支那料理講習会に通っていたため、中国の調理技法に基礎があるのです。星岡茶寮の名物料理に魚の姿揚げである「琥珀揚」がみられるのもそのためです(ちなみにこの料理は『魯山人の料理王国』にも登場していますが、魯山人が勘違いして昭和10年に命名したと書き改めたために、その来歴がさっぱりわからなくなっています。初出は昭和8年の料理講習会なのですが…)。なにしろ魯山人は美食倶楽部時代には、日本料理には油脂が足りないので改革したいと婦人雑誌のインタビューで述べているくらいですから。
 果物を多用したのも当時有名な話でして、逆に「星岡茶寮は値段は高いが、実際に高価な素材は果物ばかりだ」と悪口を書かれたりしています。昭和9年の日本料理研究会の展示会でも果物の盛り合わせを出品していますので、本人も自信があったのでしょう。

 小社刊の『日本料理入門』の著者藤本憲一氏は、昭和10年に星岡茶寮に入り、のちに姉妹店の銀茶寮の料理長を務めていた料理人ですが、本書中で再現している星岡茶寮時代の料理写真からも先の3つの特徴がうかがえます。丸のままの果物が盛り付けられているのは、今にしてみると少し野暮ったい印象も受けますが、当時の雑誌に載った写真もこんな感じでしてリアルです。

nihonryorinyumon.jpg  nihonryorinyumon_2.jpg nihonryorinyumon_1.jpg

 こうしてみると魯山人の料理は実に近代的なセンスがうかがえる反面、今の人が想像しているようなしっとりとした趣きのある感じではありません。最初に挙げた“築地に仕入れに通う魯山人”と同じく、現代人の感覚が生んだまぼろしのような気がしてなりません。


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投稿者 webmaster : 2010年06月23日 15:07