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2014年12月25日

料理本のソムリエ [vol.65]

【 vol.65】

世界無形文化遺産の共演
和食と和紙の夢のコラボ

 1年ぶりのブログ更新です。

 前回、世界無形文化遺産登録の裏話をバクロしてしまったのがばれて、農水省に拉致されて「貧乏農場」で働かされておりまして……というのはウソですが、ブログをさぼってせっせと農作業をしてたのはホントです。

 屋上農場の経営(vol58参照)が病膏肓に入りまして、今年はピーマンを植えたりスイカに手を出したりバケツ稲に挑戦したり。このブログを執筆するには、裏づけ調査のために土日はせっせと図書館に通わなければならないのですが、水やり虫取り堆肥づくりにせっせと精を出してました。それが寒くなってきて、芋も掘ったし豆も植えたし、することがなくなったので再開です。

 そうこうしているうちに、もう次の世界無形文化遺産が決まっちゃいました。今度は「和紙」なんですね。実は2009年には石州和紙が指定を受けており、それに本美濃紙と細川紙を追加して指定し直しただけなんですが、5年前と違ってずいぶん話題になりました。

 というわけで今回のテーマは「和紙が和食に貢献したこと」について。心を入れ替えて政府におもねりたいと思います。近頃はメディアが国益を損ねるとしかられるみたいだし。

 まっさきに浮かぶのは「紙塩」ですかねえ。素材にぬらした和紙をかぶせて、その上から塩をふり間接的に塩味を回す技法です。淡くデリケートな味つけですね。

 それから「奉書焼」。松江名物としても有名な、素材を和紙で包んで焼く焼物です。適度な蒸し焼状態になり、焼き汁が逃げません。まあどっちも洋紙でも作れないことはないと思いますが、なんとなく和紙じゃないとサマになりません。


yakimonotoshio.jpg


 ちょっと変わったところでは「紙鍋」なんてのもありますね。金属の籠の内側に和紙を敷いて鍋代わりにして煮るという、現在見られるスタイルの紙鍋は、大阪の「蘆月」が始めたそうです。昭和5年刊行の『京阪食べある記』vol42参照)で松崎天民が、「幻妙不思議鍋」という章を立てて、創業当時から話題となった紙鍋についてレポートしています。

「この紙鍋と云ふ奴、紙製の鍋と思ひきや、銅製の鍋の形した鋼の上、薄い美濃紙一枚を敷いて、それにだしを入れたり、鯛や海老やいかを入れてジワジワと煮て食べるのである」

 銅製の鍋の形の「鋼」というのが今の金網にあたるかどうかわかりませんが、魚すきの一種と見なされていたようですし、ほぼ同様の形とみていいでしょう。

「抑(そもそ)もその美濃紙一枚の上には、何か知らぬ油を布いてあつて、その油に曰く因縁種仕掛がおますのやろ。少し遠い炭火ではあるが、汁のアクや魚の脂肪は煮え立つと共に紙の裏面に廻つて、魚も汁も極めて美味く食べられるのが蘆月紙鍋の自慢だとある…(略)…紙一枚が鍋の危なかしさも、時にとつての座興であるが、その煮た物が美味いとあつては、無條件に頭が下がつてしまう」

 天民先生べたぼめであります。当時道頓堀には金鍋を使う肉屋があって、銀鍋であればざらにあり(そういや魯山人の「銀茶寮」は銀鍋が売り物でした)、朝鮮風の石鍋もあったそうですが、「美濃紙一枚の紙鍋は、何と云つても珍中の珍」なんだそうで。こうなると、この紙の秘密が知りたいところですが、「何でもあらへんもんだすがな。そやけどな、しやべつてしもたら、人に真似されますよつてに、秘密の法で威張つて居まんね」と天民に向かって笑う「蘆月」の女将さん。うーん、いけずですなあ。

tofu.jpg ただ、これよりもっとシンプルな紙鍋は、はるか200年前から存在しておりまして、享保17(1732)年序の『万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』に出てまいります。紙を折って箱形にして、それを鍋代わりにして豆腐を煮ちゃう。茶袋のような細長い形にして酒の燗をつける「ちろり」代わりにするという使い方もあるとか。どうもこれは手元にあるものを使って鍋を作る、手品的効果を狙った料理(vol14参照)のようです。使い終わったら燃やしてしまえばいいわけで、片付けが楽そうだしね。

 紙製の鍋を火にかけたらすぐ燃えてしまいそうですが、紙の発火点は華氏451度(233℃)っていいますから、鍋の中は汁が沸騰しても100℃どまりなので、煮つまるまではそれ以上温度が上がらず火がつく心配はないというわけです。どちらかというと紙がふやけて汁がもれちゃいそうではらはらしますが、その点蘆月では、秘密の油を引いておりました。

 いっぽう『万金産業袋』では、コンニャク糊を引いて耐水性を高めた紙で作るとあります。コンニャク糊は逆に料理のほうが和紙に貢献した事例でして、コンニャク引きの紙はなんと布代わりに使われていました。軽くて水をはじくので、僧侶の服や陣羽織などになったそうです。さらに先の戦争では、世界初の大陸間弾道兵器である風船爆弾にも使われました。不発弾を回収したアメリカ軍は、さぞや首をひねったことでありましょう。

 うーん、なんだかどの事例もぱっとしないですねえ。

 そこで真打のご登場。焼海苔こそが製紙技術を食品に転用したものであり、日本が誇る文化です。なにせSUSHIには欠かせませんぞ。

yokoyama.jpg ただし海苔作りに使われているのは漉返紙(地漉き紙)、つまり再生紙の技術です。使い古した紙を水に浸けてふやかしてよく砕き、簾を敷いた枠の中に流し入れ、これを干して再び紙として使うわけです。世界無形文化遺産の和紙作りでは、水中で枠をゆらして繊維を均一に広げる「流し漉き」に職人技が光りますが、こちらはもっと簡単な「溜め漉き」です。元の紙の字や模様なんかが砕ききれなくて残っちゃったりするのはご愛嬌。

 海苔の歴史は少々ややこしくて、宮下章先生の『海苔』によりますと、初期の浅草海苔は今みるような漉き海苔ではなくて、自然に生えた海苔を摘んで、広げのばして干しただけの簡単なものだったようです。葛西あたりで採った海苔を浅草観音の参詣客目当てに販売したのが始まりで、浅草には海苔専売の商人も現れました。

 浅草で海苔が「作られる」という記述が見られるようになったのは、万金産業袋と同じ享保の頃。ちょうどこの頃には品川で「海苔ひび」を使った海苔の養殖が始まります。浅草には紙すき町という地名があるほど再生紙作りが盛んに行なわれていまして、その技術と出会い、今みるような漉き海苔が誕生したわけです。「浅草の名物観音、海苔と紙」っていう句があるくらい、海苔と紙は浅草を代表する商品となりました。

 宮下先生の本には、「巻鮓の現れた時期は明らかではないが、安永のころ(1772―81)になると、すでにいろいろな巻鮓が作られている。笹巻、ゆば巻、玉子巻、海苔巻がそれである」とあります。安永年間の『新撰献立部類集』には海苔巻きの作り方があり、浅草海苔、河豚の皮または紙をすだれに敷いて、飯をのせ、魚を並べてすだれで巻きます(宮下先生はフグの皮や紙でできたすだれと解していますが、恐らく間違いです)。ここまでは今の巻き簾の使い方と変わりませんが、最後に四角い枠に入れて重石をかけるそうです。押しずしの変形だったんでしょうか。

 宮下先生によると、そもそも巻きずしは湯葉や昆布などで巻くほうが古く、関西や九州では明治になってもこちらのタイプのほうがポピュラーだったそうです。江戸時代の漉き海苔はまだまだ高級品で、海苔でくるんだおにぎりや缶入りの海苔が全国の家庭に普及するのは第一次世界大戦後からだとか。この頃、全国に養殖産地が広がり、遠く朝鮮半島でも海苔が作られるようになり、海苔の生産量が激増するのです。

 となると節分の恵方巻は、海苔巻の販売促進のために始まったもの、という説明も合点がいきますね。「恵方巻」の起源と普及の研究は、熊本大学の岩崎竹彦先生が先駆者で、広島の食品メーカー「あじかん」50周年記念誌の『日本の伝統食巻寿司のはなし』に1章を立ててまとめておられます(残念ですが非売品。私は広島の「喜多丘」さんにいただきました)。戦前の大阪の鮓商組合による「恵方に向かって巻寿司の丸かぶりすると大変幸運に恵まれるという習しが昔から行事の一つになつてゐて年々盛んになつています」などと書かれたビラの存在が確認されておりまして、戦後になってからは大阪海苔問屋協同組合も協力し、飛行機でビラをまいたこともあったそうです。

sushi.jpgしかし昭和45年小社刊の『すしの本』vol2参照)で篠田統先生が恵方巻について興味深い証言を残してくれています。「四十四年の節分の日、日本風俗史学会食物史分科会の月次例会の席上、大阪市立博物館の平山敏治郎館長から「ここへ来る途中、阿倍野橋のすし屋の表に本日巻きずし有りという広告を見たが、何のことかしら」という質問あり。美登利鮓の久保登一氏の返事に、節分に巻きずしを食べる風は大正初めにはすでにあった。おもに花街で行なわれ、ちょうど新こうこうが漬かる時期なので、その香の物を芯に巻いたノリ巻を、切らずに全(まる)のまま、恵方のほうへ向いて食べる由。老浪華人の塩路吉兆老も今日まで知らなんだ、と言われる。もちろん、私も初耳だ。普通の町家ではあまりやらないようだ。全国ではどうだろうか」

 この本は昭和41年に出版されておりまして、45年版は版型を大きくして加筆したもの(今さらですが吉兆は誤植でして、正しくは塩路吉丁でしょう)。わざわざ新たに一項立てたのは、篠田先生てばよほど印象に残ったのでしょう。ちなみに大阪市立博物館の後継施設である大阪歴史博物館には、昭和15年の節分の日付がある「美登利」が配った「幸運巻寿司」のビラが所蔵されています。

 このことから当時の大阪人でも知らないほうが多数派で、今のように普及するのはスーパーやコンビニが宣伝するようになってからというのがうかがえますね。鮓商組合のいう「昔から」というのは何を根拠にしているのかはわかりませんが、江戸時代ではなさそうです。だいたい無言で1本丸まる食べるなんて贅沢でお行儀の悪い食べ方、宴会芸以外の何ものでもないもんね。節分の座興もいいけど、こぼしたり残したりしてはいけませんぞ。なにせ海苔巻の海苔は日本の誇る「モッタイナイ」文化が生んだ、リサイクル技術の応用なんだから。

 そういえば海苔ってちり紙と形も大きさも似ているよね……って言っても、みなさんロールペーパーやボックスティッシュしか知らないか。「毎度おなじみのちり紙交換」って言ってもぴんとこない若い人も多いかもね。これまた無形文化遺産に指定してもらわないと……。


  

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投稿者 webmaster : 2014年12月25日 10:48