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2012年12月14日

料理本のソムリエ [vol.49]

【 vol.49 】

一日に白米六合と六銭ぶんのおかずを食べ

 今年もあと半月。思い起こせば柴田書店のある文京区では、2012年は森鴎外押しの年でした。なんでも織田作之助よりも半世紀先輩にあたる生誕150周年だそうで、年初めにはお祝いの旗が街灯だの商店の軒先だのに掲げられまして、会社のあるビルの1階エレベータ横にも飾られていたほどでした。区を挙げてお祝いムードを盛り上げようということなんでしょうが、配りすぎ。おまけにこれがまた吸盤が弱くて、落ちること落ちること。エレベータから足を踏み出すと鴎外先生にうらめしそうににらまれてぎょっとしました。

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 そうこうしているうちにいつの間にか片付けられたと思ったら、秋にはずいぶんかわいくなったVサインする鴎外さんが近所の酒屋さんにお目見えして、またまたぎょっとしました。ぜんぜん懲りてない…。と思いきや、どうやら11月1日に森鴎外記念館が完成するのに先駆けて作られたもので、この旗を見つけた人は景品2000点以上が当たる抽選会の参加資格が得られるという催しだったようです。旗には気づきましたけど、抽選会の告知がどこにあるのかまったく気づきませんでしたよ…。

 悔しがっていたら今度は図書館でスタンプラリーを実施していました。区内の4館を回ると記念品をくれるそうです。図書館ならひんぱんに出入りしているからちょうどいいや。今度は取り逃がしませんぞ。ついでにくだんの森鴎外記念館にも寄るといたしましょう。

 森鴎外の遺品なら高校生の頃に見たことがあります。当時は本郷図書館に付属する記念室でこぢんまりと展示されていたのですが、図書館機能は近所に移して丸まる記念館として建て替えたというわけ。もともとこの場所は鴎外の自宅である観潮楼の跡地でして、戦火で丸焼けになりましたが、門柱の基礎石や鴎外が座った庭石などが残っています。

 それにしても今度の施設のまあ立派なこと。と思ったらがっちり入場料をとられましたよ(泣)。でっかいiPhoneよろしく、著名作家たちが鴎外に送った葉書の画像を指スクロール&クリックすると、ひっくり返って裏側が見られるなんていう展示もありまして、お金がかかっております。素敵なカフェが併設されており、区内の和洋菓子店が開発した鴎外ブランドの菓子も食べられます。鴎外の焼印を押したものあり、作品にちなんだものあり、ちょっとこじつけっぽいのはご愛嬌。

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 個人的に興味深かったのは、開館にあたって新しく寄贈された「日本兵食論大意」自筆原稿の展示です。文豪森鴎外は、陸軍に仕える軍医森林太郎という顔ももっておりました。この論文は「大意」とありますように、鴎外がドイツ語で執筆した論文の要点を日本語にまとめて、留学先のドイツからわざわざ送ったものです。当時最先端のドイツ医学を取り入れたこの研究があとあとまで尾を引いて、鴎外と周囲の人を振り回したんだよなあと思って眺めると感慨深いものがあります。

 鈴木梅太郎が世界に先駆けてオリザニンことビタミンB1を発見したことは、子供向けの偉人伝などにとりあげられるほど有名な話。また日本海軍はカレーだの肉ジャガだの洋食の普及に一役買っていますが、そもそもの始まりは海軍軍医の高木兼寛が脚気防止のために洋食の献立を採用したからでした。彼は明治17年に戦艦「筑波」を使って従来の食事で脚気患者を大量に出した航路でパンや洋食を取り入れた改善食を与え、比較実験することで、米を減らして麦を多く採ることが脚気予防に有効なことを立証したのです。

 それに対して陸軍が延々脚気に悩まされ続けたこと、その責任の一端が日本兵食論大意で軍首脳部をミスリードした森鴎外にあると語られるようになったのは平成に入ってからでしょうか。失敗の歴史というのは、なかなか言うのにはばかれるようで、広まるには時間がかかるようです。

 ここで事情を知らない方にざっくり説明しますと、「舞姫」「阿部一族」「山椒大夫」などの作品で知られる森鴎外は文筆で生計を立てていたわけではなく、れっきとした医学博士でありました。あまりのかしこさに2歳年をごまかして(逆サバを読んだわけです)12歳で現在の東大医学部に入学し、19歳で卒業して陸軍省に入ります。すぐに念願のドイツに4年留学しまして、コッホなどの著名な研究者の元で学んでおります。当時のドイツは細菌研究が飛躍的に進みつつあったものですから、鴎外も脚気の原因を未知の細菌に求めてしまいます。

 最先端の学問を学んだ早熟の天才鴎外にとっては、先輩たち(vol34の三宅秀とか)など何するものぞ。高木兼寛の洋食採用にも異を唱えます。高木は洋食採用で脚気が防げるのは窒素(タンパク質)の割合が高いからと考えており、鴎外はその誤りを突きます。

 しかし理論の正しさはともかく、ただでさえ麦は白米よりビタミンB1が多いうえに、おかずもしっかり食べる海軍の食事のほうが優秀だったのは明白でした。日清戦争での陸軍の戦死者は1000人、戦傷死は300人程度に対し、病死者は2万人以上でこれにはマラリアや赤痢も含まれますが、そのうち4000人が脚気で亡くなっております。複数回かかる人がいるものですから、全体の発生率はなんと180%。日露戦争はさらに苛烈で、戦死者は4万6000人にものぼりましたが、脚気による死者もそれに負けじと2万7000人強。戦地での入院患者は約25万人でその半数が脚気でした。これではなんのために大陸くんだり連れてこられたのかさっぱりわかりません。一方海軍はといいますと日清戦争での脚気の死者は1人、日露戦争では3人です。いくら海軍兵士のほうが全体の人数が少ないとはいえこの差は…。

 椅子からぶらぶらさせた足の膝小僧の下をぽんと叩くと、反射で本人の意思にかかわらずつま先がぴょんと前に出る。もしうんともすんとも言わなければ脚気の疑いあり……なんていうのが学校検診にありましたが今も行なわれているのでしょうか? 当時は脚気になったがどうしたと馬鹿にしておりましたが、重度の脚気で命を落とすというのは驚きでした。くわばらくわばら。炭水化物をエネルギーに変えるにはビタミンB1が不可欠でして、これが不足すると末梢神経に障害がおきて、疲れやすく、歩くのも困難になります。さらに心臓の動きも弱まり、「衝心」すなわち心不全になってしまうというわけです。

 ビタミンB1は水溶性で多めにとっても尿として排出されてしまうので、常に一定量を摂取しなければなりません。しかし陸軍兵士に1日に支給される食事は明治6年に白米6合と副食物6銭6厘(4年後には政府の財政難を受けておかず代は6銭に減らされます)と定められました。6合という数字は江戸時代の武士の一人扶持(家族手当)で支給された米が5合だったので、兵隊はもっと必要だろうとソロバンをはじいたそうです(もっとも武士も米ばかり食べていたわけではなく、これを換金して生活費としていたわけですが)。

 米が給料替わりだった江戸時代の食事はいきおい米偏重となり、武士階級から脚気が流行りはじめます。田舎にいるとかからないので「江戸わずらい」と呼ばれ、その療法としては豆や麦の粥を食べることが有効だということは経験から知られておりました。

 実は陸軍も、平時においては麦飯を採用することで脚気患者を減らすのに成功していました。ところが肝心の日露戦争時においては、麦が傷みやすくて運びづらいことから白米偏重という愚を犯したのです。輸送力があり厨房も備えた軍艦暮らしの水兵と違って、人力で食糧を運んで屋外で調理する歩兵では、おかずが少なくてすむ握り飯(麦飯はぽろぽろくずれやすいのであくまでも白米です)中心の食事にしたほうが簡単だったという事情もありました。もっとも大陸のような極寒の地では握り飯は凍って食べられなくなってしまうのは、浅間山荘事件でのカップラーメンの活躍でご存知の方もいらっしゃることでしょう。脚気の蔓延に苦悩した戦地の軍医たちは麦の支給を求めますが、脚気は伝染病という頭のある陸軍上層部の動きはにぶく、すべてが後手後手となりました。

 『高木兼寛伝』を著した松田誠氏は、脚気伝染病説に固執した東大出身の学者たち、とくに鴎外は実験室での研究を重視するあまり、実際の患者の病状から考える疫学的手法をおろそかにしたと批判的です。イギリス医学を学んで看護婦教育にも取り組んだ高木兼寛は、理論よりも救済のほうに重点をおきました。パン食を嫌ってこっそり捨てる者が後を絶たないことから海軍の献立に麦飯も取り入れるといった融通性をもっておりました。なお高木の生涯は、吉村昭の小説『白い航跡』でも追うことができます。

 いっぽう脚気研究で知られる山下政三氏は、『鴎外森林太郎と脚気紛争』で鴎外の立場を擁護し、脚気がビタミンB1不足による病気と学術的に証明されたのは、鴎外が医務局長として立ち上げた臨時脚気病調査会の功績であることを明らかにしています。またいったん脚気撲滅に成功した海軍もたんぱく質にこだわるあまり、缶詰や精白率の進んだ麦の採用などでビタミンが不足がちになり、再び脚気患者を出すようになったとも指摘しています。もっとも松田氏は高木が創始した慈恵医大、山下氏は東大の先生ですからちょっと割り引いて読みたくなりますが。

 山下氏は陸軍の米飯偏重はひとえに鴎外の上司の石黒忠悳に責任があるとしていますが、坂内正氏は『鴎外最大の悲劇』で、あくまでも主導は現場に近い鴎外にあったと推測しています。どちらにしても鴎外にまったく責任がなかったとはいえないでしょう。臨時脚気病調査会の研究もうがった見方をすれば、学術的に立証されるまでは説を曲げたくないという鴎外の頑固さが原動力だったともとれます。理論の正しさに拘泥するあまり、予防につながらなかったとしたら本末転倒な気もいたします。

somurie_25118.jpg それにしてもなぜ日本軍ばかりが脚気に悩んだのでしょう。日露戦争では、ふらふらしながら突進してくる日本兵を見て、恐怖心を振り払うために酒に酔っているのだとロシア兵に勘違いされたそうです。ビタミンB1は豚肉にも多く含まれますので、欧米人や中国人にとっては縁遠い病気だったのです。おまけに西洋料理や中国料理に欠かせないニンニクがビタミンB1の吸収の助けになるのだとか。『栄養「こつ」の科学』によりますと、ビタミンB1はニンニクと一緒にとると、におい成分のアリシンと結びついて脂溶性のアリチアミンとなり、吸収しやすく、蓄えやすくなるそうです。さらにアリチアミンは交感神経に働きかけてノルアドレナミンの分泌量を増やし、エネルギー代謝を促すとあります。ネギやニラのにおい成分も同様の効果があるそうですから、薫酒山門に入るを許さずというのも理由があるわけですね。

 それでは迎え撃つロシア兵は元気はつらつだったかといいますと、こっちはこっちで壊血病に悩まされておりました。壊血病はビタミンC不足から起きる病気で、コラーゲンが作られなくなって毛細血管から出血し、こちらも死に至ります。野菜や果物が不足する長期航海の船員たちがことごとく壊血病になり、海の湿気のせいだとか、伝染病だとか恐れられていました。脚気と違って日本では問題にならなかったのは、普段から親しんでいる漬物や緑茶にビタミンCが含まれていたからでしょうか。

 それにしても日露戦争の時代に壊血病とは。柑橘類を食べることで防げるとわかってとっくの昔に克服されていたのでは?と思ったら、西欧でも米食論争のようなことをしていたのでした。『壊血病とビタミンCの歴史』を読むと、オレンジやレモンが壊血病防止に有効らしいとわかったものの、体積を減らそうとして煮詰めたり(当然ビタミンは壊れます)、硫酸でも代用できるとか麦芽がいいとか百家争鳴で、なかなか撲滅できなかったことがわかります。極地探検隊は壊血病に悩まされるのに野菜と無縁なエスキモーは平気(彼らは肉の生食でビタミンを摂取していたのですが)なので、さらに混乱。イギリス軍は南欧から輸入するレモンが高いのを嫌って、西インド諸島産のライムにとびつきますが、これはレモンよりもビタミンの含有量が少なくて効果が薄いため、柑橘そのものの有効性まで疑われます。そのうえビタミンCを多く含むジャガイモが普及することで、余計に原因がわかりづらくなってしまいます。壊血病予防にレモンが有効というのは、イギリス海軍軍医のジェームズ・リンドの実験で18世紀後半にはわかっていたにも関わらず、根本的な解決は20世紀のビタミンC発見を待たなければなりませんでした。

 生鮮の果物が効果的らしいとわかっても、痛みやすいだのかさばるだのと理由をつけて別のものに頼ろうとして失敗するところなんて、麦と米との関係に似てますね。学者が自説や理論にこだわるあまりに真実から目をそむける、なんていうのは洋の東西を問わないようです。

enpitsu.jpg  そうそう、図書館めぐりの結果をお話してませんでしたっけ。天神、湯島、本郷、根津(天神図書室は湯島三丁目に、湯島図書館は本郷三丁目に、本郷図書館は千駄木三丁目にあってややこしいです)をぶじ制覇しまして、賞品を見事ゲットしました。鉛筆1本でした。でも、鴎外ブックカバーとしおりもくれたのでこちとら結構ご満悦であります。

  
  

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投稿者 webmaster : 2012年12月14日 11:07