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2011年02月10日

料理本のソムリエ [ vo.17 ]

【 vol.17】
平成と大正のアーティチョーク祭り

 昨年の話で恐縮ですが、仕事納めの大掃除で会社のロッカーの引き出しを整理していた時のこと。何年も前に壊れて引き出せなくなっていたのを直して、特例で使わせてもらっていたのですが、所属部署が変わったためにかねてから引き渡しを求められていたものでして。99年租借ではなかったのか…なんてこぼしつつも、不法占拠は不法占拠、引き出し2つ分の資料をすべて片付けましたとも。
 そうしたら料理店のパンフレットの束(そんなものまでとっておくからいくつ引き出しがあっても足りないのだと思われるかもしれませんが、余計なお世話です)の間から、懐かしい人の手紙が出てまいりました。昨年の1月に93歳で亡くなられた、築地市場の青果卸店「大祐」の大木健二会長からです。1999年に店(市場ではコマといいます)の権利を得て2倍の広さに拡張したときのもので、ワープロではなく手書きのコピー。ちょっとうれしい発見です。ステルギジュツだのダンシャリだのといった耳障りのいいキャッチフレーズは、まとめてゴミ箱行きですね。

 大木さんの功績については、料理の世界にたずさわる人たちなら、大なり小なりお聞き及びでしょう。戦後、急速に需要が伸びた西洋野菜の調達と、国内産地の開拓に努めた業界のパイオニアです。フランス料理やイタリア料理のシェフの「現地で使っているあの野菜を日本で手に入れたい」という要望に応えるべく奔走された一生でした。
 手紙には行間に嬉しさがあふれている新店の案内文とともに、市況情報、そして「第3回アーティチョーク祭り」のお知らせもありました。これはイタリアのアーティチョークの収穫祭にヒントを得たもので、料理人さんや流通関係者を調理師学校に招いてアメリカ産だのイタリア産だの各種アーティチョークの食べ比べを行ない、アーティチョークの魅力についてもっと知ってもらおうという催しです。本来なら輸出元の大使館や輸入商社が行なうべき企画なのに、大木会長の個人的な熱意でもって開催しておりました。あれから10年以上経ち、イタリア産のアーティチョークもずいぶん認知が広まりましたが、陰でこうした地道な努力があったことは記憶にとどめておきたいです。

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 このアーティチョーク一つをとっても、かつては調べるのが大変でした。98年頃にイタリア産の輸入が始まったとき、雑誌に図鑑として写真を載せたはいいが、マモーレとコン・スピネの説明文の位置を取り違えてしまったのは苦い思い出です。
 西洋野菜は料理人さんが使う通称と市場での呼び名が違うものも多く、なかなか厄介です。新人の頃にまず困ったのはエンダイブとアンディーブ。エンダイブはフランス料理店でいうシコレ・フリゼ。アンディーブはチコリとイコールだというのがなかなか覚えられず、レシピ取材のときに混乱してしまう。おまけに私が入社した頃は西洋野菜を扱った写真入りの図鑑といえば、唯一シェフシリーズの『料理野菜図鑑』があるのみでした。これは後に名著『十皿の料理』をものした大本幸子さんが中央公論社時代に編集したムックで、「素材から迫る新しい料理書」と謳っているように、現場の目線に立っておりとても役に立ちました。人づてに聞いた話では、大本さんとしてはまだまだ納得いかない部分もあったそうですが…。

 実は外国の野菜や家禽・家畜に関する情報というのはあまり世に出回っておりません。世界の野草や野鳥に関する図鑑はどこの図書館でも目にするのですが、人間が作った「品種」に関する本というのは、おおむね農業や畜産業の専門家向け。さらにこうした専門家たちは国内の栽培品種や飼育品種で手一杯ですから、外国のものにはあまり詳しく言及してくれません。
 それでは海外の著者の翻訳本ならどうかというと、古くは万有ガイドシリーズの『西洋野菜の百科』、のちに出版された『西洋野菜料理百科』があるくらいで、これまた数が少ない。それに日本の読者を想定して書かれていなかったり、翻訳がこなれていなかったりで、どうも隔靴掻痒な感じがありました。


080753.jpg とくにイタリア関係は地方種などもあって難しく、担当者は現地から送ってもらった種苗カタログが頼りになる存在だと申しておりました。まあ、それもこれもインターネット普及前夜の話ですが。逆にネット世界は便利のようでいて情報があふれすぎており、正解に適確にたどりつくのには結構骨が折れます。百聞は一見にしかずとはよく言ったものでして、今でも現地取材にかなうものはありません。小社刊『野菜のイタリア料理』では、プーリアのトラットリーアの家庭風の野菜料理や露天の野菜売り、畑の写真などもありまして、彼の地の空気をよく伝えておりますよ。

 さて大木さんの思い出話に戻しますと、西洋野菜の特徴や来歴は本で調べることができても、日本での産地状況や実際の流通事情は会長に教えていただくのが常でした。はるか昔、会長がムスクランとはどんなものか調べていた時に(ムスクランはサラダ用の葉物のミックスなので、事情を知らないとなんだかヌエみたいで正体がわかりづらい代物なのです)、『月刊専門料理』の小さな記事が頼りになったとかで、後々まで恩義に感じてくださっていました。新人編集者のわれわれも可愛がってもらい、築地場内の寿司店の中のどの職人さんの腕がよいか教わったり…。会長はイタリア料理のシェフと現地に渡って市場を回り、プンタレッレ(うにょうにょ伸びあがったような妙な形のイタリア野菜でして、一般には複数形のプンタレッラとか略してプンタとか呼ばれています)やペコリーノ(羊乳で作る固いチーズです)と一緒に生のまま食べるソラマメなど、ほれ込んだ野菜を日本に導入すると、真っ先に編集部に連絡してくださいました。

senmon1999_5.jpgsenmon1999_5_1.jpg そんな大木会長なのですが、取材していて「いいのかなあ」と思ったのがキクイモのこと。ショウガのような形の根菜なのですが、会長はこれを「トッピーナンポ」と呼ぶのです。フランス語でキクイモを指すトピナンブールがなまったようなのですが(ちなみに英語ではエルサレムアーティチョーク。なんでまたこんな妙な名前がついたかは『西洋野菜料理百科』をご覧ください)、業界のトップリーダーがこんな名前で呼ぶとそれが広まってしまうぞ、と内心危惧したものです。大木会長も野菜流通のプロとはいえ育種の専門家ではないので、産地がつけた変な野菜名を踏襲したり、誤解されている点がありまして(アスペルジュ・ソバージュをアスパラガスの野生種とするとか)、老婆心ながら心配しておりました。

 ところがこのトッピーナンポ、大木会長が間違って覚えていたのではなく、市場でずっと古くから使われていた通称なんですね。その著作『洋菜ものがたり』によると、戦時中には食糧増産のために大々的に作られていたとかで、戦中派の会長としては特別な思い入れがあったようです。ちなみにこの本は、大木会長の野菜の輸入と産地化の苦闘がわかる貴重な一冊なのですが、市況などを扱う日本デシマルという特殊な会社から出版されたため、一般書店には流通せず、あまり人の目に触れなかったのが残念です。

 実は冒頭に述べた仕事納めの後のこと。平日の午後が丸まる空くなんて貴重な機会ですから、さっそく図書館へ行って大正時代の婦人雑誌を読んでいたら、思いがけずキクイモにぶつかりました。医史学者として名高い富士川游が、糖尿病にきく野菜としてドイツから持ち帰ったキクイモを、俳人の岡野知十に譲っていたのです。ところが知十がフランス料理店主の奥田駒蔵(vol12参照)にたずねたところ、すでに東京の野菜市場ではキクイモを扱っていて(ジャガイモより少し高いくらい)、「トッピ」の略語で通じるとか。「私かたなどでも気取ってトッピを用いましても、そうとは知らずにやっぱり馬鈴薯で食べられてしまいます。あなたもそうであったのでしょう」と苦笑されたそうです。本格志向の料理人さんの思い入れは、今も昔もなかなかお客さんには伝わらないものですねえ。

 富士川游はキクイモの普及に熱心でして、鎌倉の自宅で栽培し、知十のような友人に配ったり、キクイモ試食会を開いてその普及に努めていたようです。いわば大正時代のエルサレムアーティチョーク祭り。ドイツ文学者にして江戸漢詩にも造詣の深い、息子の富士川英郎著『読書好日』によると、大正4年には上野不忍池近くの料理店でキクイモ料理2品、卵料理2品の試食会を開いたとあります。富士川游は医学者仲間たちを呼んで、こうした催しをたびたび実施しており、田端の「天然自笑軒」(芥川龍之介の友人の店です)で本家アーティチョークの試食会も開いております。
 彼が医学博士号(今の博士号とは格が一桁も二桁も違います)を授与されたときの記念パーティの席では、キクイモの薄切りを二杯酢に漬けて香の物代わりにしてみたエピソードを披露したそうで、かなり日常的にキクイモを楽しんでいたことがわかります。一方岡野知十はというと、ヘットや胡麻油で素揚げにしたり、試食会用に寒天で寄せたお菓子に仕立ててもらったり…。知十は奥さんが料理研究家ということもあって、文学界きっての料理通でもありました(ちなみにどの魯山人本もご関心がないようですが、美食倶楽部の発起人の1人です)。家族で仲良く発行していたタブロイド版の『料理研究』という雑誌は、フランス文学者である息子の岡野馨がフランスの文献を翻訳紹介していたというからかなり本格的です。ちなみに、ここに富士川游が投稿したキクイモの紹介文は『富士川游全集』で読むことができます。

 なお富士川英郎の手元には5号分の『料理研究』が残っていたそうで、87年刊行の『読書好日』には写真まで載っております。ですが、2006年に神奈川近代文学館に寄贈された富士川英郎の資料や蔵書中には現物が見当たりません。京都大学の富士川文庫は古医書のコレクションで、東大の知十文庫は江戸時代の俳書で、それぞれ名高いのですが、もちろん『料理研究』は含まれていません。料理雑誌なんて、所詮まっさきにダンシャリされる対象ですからねえ。どなたかのロッカーの底にひっそりと眠ってはいないものでしょうか。

  
  

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投稿者 webmaster : 2011年02月10日 10:21