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2011年01月25日

料理本のソムリエ [ vo.16 ]

【 vol.16】
日本に飛び火した豆腐問題

tofuhyakuchinyoroku.jpg 前回の記事をアップしたちょうどその日、デパートの古書市の出品目録を眺めておりましたら、超貴重本と紹介したばかりの『豆腐百珍餘録』が載っており、仰天しました。私の知る限り、この本のオリジナルは慶応大学にしかありません。あわてて注文を入れたのですが、これを書いている段階では抽選結果はまだ不明です。落胆のあまり旅に出てしまって次回はお休みするかもしれません。
 そわそわしつつ『料理文献解題』『江戸時代料理本集成』の解説をもう一度よく読み返したら、この本は『豆腐百珍』の出版元が購版、つまり『豆華集』の版元から購入したとありました。vol.1で申し上げた版木を同業者に売り渡すというケースでして、江戸と大阪で対立していたわけではなかったのですね。昔の出版人も結構紳士的だったということで、ここに訂正いたします。

 そんなこんなでまた豆腐の話です。
漢字の「豆腐」なんですが、最近は「豆富」という書き方も目にしますね。食品なのに「腐」という字はどうも、という心理によるようです。「そもそも豆が腐ったのなら納豆じゃないか」というのは昔からよく聞く異議申し立てですが、「いやいや、腐という字には、集める、柔らかいという意味があるんです」と説明されているものをみかけます。
 ところが清の皇帝が作った国家公認(何しろこれを批判した本は禁書、著者は死刑になったくらいです)の『康煕字典』にも、全15巻で世界最大を誇る諸橋『大漢和辞典』にも、「腐」の字の意味を集めるだの柔らかいだのとする説明が見当たらないんですよ。腐という字が気になるのは中国の人も同じなようで、元代には「菽乳」(菽は豆の意味です)という別名も考え出されております。
 ちなみに豆腐は紀元前2世紀に淮南王、劉安が発明したことになっておりますが、これまたまゆつばものでして、それから1000年間、文献に豆腐の二文字がまったく登場しません。豆腐の歴史の研究は篠田統先生が権威でして、日本風俗史学会誌に1968年に発表された「豆腐考」で縦横無尽に史料を駆使して中国と日本の豆腐について考証されています(雑誌を探すのは大変ですが、さいわい『全集日本の食文化』3巻に収められております)。それによると、豆腐なる食品が初めて登場した文献は北宋の時代の『清異録』。おまけに南宋や元の文献によると四川省では別名「黎其」「黎祁」「来其」とも呼ばれておりました。表記法がいくつもあるだなんて、なんだか外来語の当て字っぽいですよねえ。

 そこで篠田先生が主張するのは、豆腐は唐の中期以降に乳製品作りにヒントを得て生まれたものとする遊牧民族由来説です。当時、乳腐と呼ばれる食品がありまして(こちらは隋の料理書に載っており、唐の歴史書にも登場します)、その豆版ではないかというわけです。唐の頃の乳腐の作り方は不明ですが、明代の『本草綱目』によると漉して煮立てた牛乳に、酢を入れて沈殿させ、漉し集めて汁を絞って固めたものとありまして、カッテージチーズみたいです。豆腐の場合は、加熱した豆乳ににがり(塩化マグネシウム)や石膏(硫酸カルシウム)を凝集剤として加えて作ります。チーズよりも固まるのがずっと早くて水きりしなくても作れないことはないのですが、固めの木綿豆腐であれば穴開き容器に詰めて「ゆ(上澄み)」を除きます。チーズと豆腐の作り方は確かによく似ています。
 ところがそれに異を唱えたのが、臼研究の泰斗、故・三輪茂雄先生。粉体工学に基づいて科学的に臼を研究されていた三輪先生は、98年10月に調査団を組んで安徽省淮南を訪問し、博物館で漢代の明器(墓に納められていたミニチュア)の構造を分析した結果、それを大豆を水挽きするのに使った石臼と判定しました。さらに中国人研究者に『文物考古三十年』という文献に漢代の墓に豆腐作りプロセスを描いた石刻画があると教えられ、「淮南起源俗説論は完全に否定された」と『粉と臼』で述べておられます。のちに法政大出版局の『粉』では、滋賀県立大の菅谷文則先生から提供を受けたとし、くだんの石刻画のイラストを掲げております。

 しかし、これにはどうやら大きな誤解と、日本人の預かり知らぬ問題があるのです。三輪先生はすたれつつあった石臼製粉の復権に力を尽くした蕎麦界の恩人。柴田書店の『そばうどん』に連載を持ち、著書『石臼の謎』では石臼の製作方法を紹介され、これを頼りに石臼を自作する蕎麦屋さんもいらっしゃいます。摩擦熱の少ない石臼で大豆を挽くことで、蕎麦と同様によりおいしい豆腐が作れることを熱く提唱されてきました。しかしそんな大恩があるからこそ、三輪先生の勘違いがこれ以上広まる前に訂正しておかねばならないと思いまして、ちょっと長いのですが説明いたします。


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 この石刻画が見つかったのは河南省密県打虎亭にある後漢時代の豪族の墓です。邸宅を模した造りで、2号墓は日本の古墳のように彩色画で、1号墓のほうは石版に薄く彫った線画(画像石といいます)で内壁が豪華に飾られておりました。1960年に発見第一報が、72年と87年にはもっと詳しい発掘報告が中国の考古学雑誌に載り、多くの画像石が紹介されたのですが、豆腐作りを描いた肝心の図についてはまったく触れられておりません。
 三輪先生が証拠文献とする『文物考古三十年』は、正しくは『文物考古工作三十年』でして、刊行の翌々年の81年に平凡社から『中国考古学三十年』のタイトルで翻訳も出ております。打虎亭漢墓の紹介文では、「租税を取り立てる状況を描いた画像石は、漢末の地主階級が農民に対して地租を過酷に搾取したことの縮図である。百戯の壁画も彼らが宴会に遊びたわむれている腐りきった生活を生き生きと描いている。打虎亭第一号墓には豆腐工房を石刻しているが、この一幅の絵は豆類に加工して、副食品をつくった生産の絵柄であり、中国の豆腐づくりが後漢末期より遅れることのないことが証明された」とあります。いやあ、時代を感じさせますねえ。肝心の画像石は写真もイラストも載っておらず、豆腐作りと断じた根拠は不明です。この本は49年の建国から79年までの輝かしい考古発見を各省ごとにまとめたものでして、人民中国の学問の大躍進を称揚するのが目的ですから、少しハッタリ気味でもおかしくありません。

irasuto_1.jpg  この遺跡の全貌は、93年に河南省文物研究所から出版された『密県打虎亭漢墓』でようやく明らかになりました。問題の画像石は東側に張り出た小部屋の南壁西側にあり、高さ95cm横120cm。
写真をHPに転載するのは著作権の問題があるかもしれないので、私が線をなぞってイラスト(左)におこしてみました。

irasuto_2.jpg

帽子をかぶった人物たちが何かを漉したり、かき混ぜたり、四角い箱に重石をして絞っている光景が描かれているようですが、表面が何箇所もはがれていてわかりづらい。石臼とされる絵には挽き手(にぎり)が見えないうえ、豆腐作りに欠かせない加熱シーンが欠けているという致命的な欠陥があります。また工程図の上には壺の絵がたくさん描かれているのですが、これらが豆腐作りと結びつきません。同じ南壁の東側にはもっと保存状態のよい、鳥をさばいたり調理する光景を描いた画像石がありまして、対になると考えると酒を仕込むシーンのほうがふさわしいようにも思えます。

 三輪先生が『粉』で紹介したイラストを見たことのある人は、「おやおや、ご隠居さんたら絵が下手くそなうえに老眼かい?」と思われるかもしれませんね。こちらでは臼の形がしっかり描かれておりますから。実は『粉』のイラストは、中国の江西省で『農業考古』という雑誌の編集主任を務める陳文華という学者が91年1月号で発表したものでして、『文物考古工作三十年』を見ていない三輪先生はすっかり勘違いされたようです。
 陳先生は慌てて撮影したボケ気味の写真から壁画の下一段分だけを取り出して描きおこしたものの、つい微妙に自説に都合のよい方向へ修正してしまいました。初めから豆腐の図であると思い込んで調査したため、先入観が働いてしまったんですね。93年に鮮明な写真が公開されたため、孫機という学者が醸造シーンと推定し、「豆腐問題」というタイトルの新説を提出。一般新聞にまで取り上げられてしまいました。
 そこで陳先生は同じ『農業考古』の98年3月号誌上で、これまでの経緯と一部描き直したイラストを提示し、釈明したうえで反論します。すると孫先生は考古学の新聞にて再反論、陳先生は雑誌でまた反論。なあなあですまさずに反論を正面から受け止める姿勢はあっぱれですが、中国では学問の世界でも面子がからむと冷静さを欠き、泥沼化する傾向があります。また淮南では豆腐村という施設を作って毎年9月には豆腐祭りを開き、豆腐発祥の地で売り出しており、今さら引っ込みがつきません。事情を知らぬ日本人学者は、「海外でも支持されている」というふうに、それと気づかないまま自説補強のお先棒を担がされてしまうというわけです。この画像石の解釈は、最新の技術で撮影するなどしてさらに慎重に検討する必要があるでしょう。
 百歩譲って漢の時代で豆腐が作られていたとしても、それが淮南に起源を持つとは限りません(密県は淮南の近くではありますが、それでも400kmは離れています)。またなぜ「腐」という字が使われるのか、なぜ1000年間も文献に現われなかったかは謎のままです。vol.2で述べたように中国人は料理や技術を書き残すのに熱心ではありませんでしたから、豆腐料理や豆腐作りの史料が見当たらないのは仕方ないにせよ、農業書や博物書、辞書なら残っています。これらの大豆についての説明文中に、ひと言「みなさんご存じの豆腐の材料です」とでも書かれてよさそうなものです。
 篠田先生は黎其(れいき)は西域の言葉か梵語(インドの言葉)の可能性があると述べております。また6世紀に書かれた(現在伝わっているのは宋代に改訂増補された版ですが)『玉篇』という字書では、「酉支酉氏」(入力できないのでへんとつくりに分解しましたが、とりへんに支と氏の漢字2文字に見立ててください。発音は篠田先生によれば「りき」です)を「乳腐」と説明しているのにも着目されています。豆腐は乳製品大国でベジタリアンも多いインドから、仏教文化とともに中国にもたらされ、寺という特殊な世界に伝えられてきたのではないでしょうか。中国に伝わる膨大な仏典の中に、別の名前で素知らぬ顔で豆腐が隠れているのかもしれません。
 豆腐がチーズの大豆版であるなら、かびをつけて熟成させるのも自然な流れ。麹を使って作る沖縄の「豆腐よう」や中国の「腐乳」の存在も納得できます。なお豆腐百珍の撰にはもれたものの、わが邦にも、ひと口大の「酢豆腐」なる発酵食品がありまして…。

おっとご隠居は長話がすぎますね。続きはご自身で調べてみてください。


  
  
 

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投稿者 webmaster : 2011年01月25日 15:45