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2013年12月26日

料理本のソムリエ [vol.64]

【 vol.64】

特定秘密の漏洩に当たらないうちに
世界無形文化遺産登録について
しゃべっちゃおう


「和食」の世界無形文化遺産登録が12月5日にユネスコによって決定しましたね。去年からはらはらしながら見ていたのですが、やれやれという感じです。ここまできたらこれまでの流れについて、知ってることをばらしても怒られないよね? つかまらないよね?

 一部でも報道がありましたが、最初日本は「会席料理(正確には“会席料理を中心とした伝統をもつ特色ある独特の日本料理”。特色と独特がかぶってますね)」で登録しようと考えていて、途中であわてて「和食」に変更しました。というのも日本より一歩先んじて登録をめざしていた「韓国宮廷料理」が、昨年の予備審査の段階で差し戻しを食らったからです。予備審査を行なう委員会補助機関の担当国は持ち回りで、このときはイタリア、クロアチア、べネズエラ、ケニア、ヨルダン、そして韓国も入ってました。ですから通過は鉄板だと思われていたのですが、「文化を享受している層が少ない」とみなされて、追加情報の提出を求められてしまうというまさかの展開。無形文化遺産は万が一登録を却下されても、世界遺産の場合と違って4年待てば再チャレンジすることができますが、臆して取り下げてしまったようです。韓国宮廷料理は「チャングム料理」という遺伝子操作で生まれた新種がすごい勢いで増えて生態系を脅かしているので、「緊急に保護する必要がある無形文化遺産」にも相当すると思うのですが…(まさか、この機に乗じて新種も一緒に認定してもらう気だったんじゃないでしょうね?)。

 韓国のつまづきで、浮き足だったのが日本側。お高そうな会席料理では同じ轍を踏みかねないと方向修正することになりました。それでか昨年農水省のお役人さんが、ヒヤリングなのか湯島天神へ登録合格祈願するついでなのか、わざわざ小社にもみえました。ご苦労様です。ところでなんで仕切っているのが文化庁じゃなくて、農水省なんだろ?

 それで「日本料理」の資料として、京都府の提案書というのを見たのですが、もうがっかりしたりあきれたり。「さしすせその基本調味料」「料理の字義は“はかりさだめる”」「割主烹従」「五味五色五法の技法」「料理の三真」…でてくるわでてくるわ。これらのお題目の真偽はおいといて、どうやって外国の人に説明するつもりだったのでしょう?

 「ソモソモさしすせそとは何のコトデスカ? ナゼshouyuがseなのデスカ?」「リョウリがナゼ、料リ理メルと同じなのデスカ?」 本題に入る前に、まず日本語表記と五十音図の歴史から説明しなけりゃなりません。こんなのプレゼンで用意してどうするつもり?

 先の提案書は、何が日本料理の特徴なのかさっぱりつかんでおりませんし、その中の何を伝えたいのか、まだ海外に知られていない魅力は何か、整理されておりませんでした。ただなんとなく偉そうな料理関係のフレーズ(日本料理の世界では割合よく見る香具師口上)を書き連ねて立派そうに見せただけ。こりゃ先が思いやられるよ…。

 会社にみえたお役人さん(上司の方もご臨席になるはずがドタキャンあそばされ…じゃない、ご多忙によりおめもじかないませんでした)には、そもそも何のために無形文化遺産に登録するのかって訊ねてみました。なんかいいことあるのかしら。

 料理がらみでほかに登録されているのは2010年の「フランスの美食」「メキシコの伝統料理」「イタリア、スペイン、ギリシア、モロッコの地中海ダイエット(ダイエットといっても減量じゃなくてオリーブ油を使う食習慣って意味です)」だそうです。じゃあ無形文化遺産になった後で、フランスやメキシコはそれをどのように国内や対外的に生かしてきたのか。日本は登録されたらこれからどうするつもりなのか…。ところが、将来登録の条件が厳しくなりそうなので、韓国に先を越される前に…というあせりが先に立っていて、今後についてはこれから検討するという。走りながら考えている感じ。

 とにもかくにも日本料理の魅力をPR(ひいては日本の食材。農水省だからね)したいらしいので、「外国人が知っている日本料理は寿司だったり天ぷらだったり焼き鳥だったりすき焼だったりするので、会席料理で登録するにしてももっと門戸を広くして、天ぷら会席だとか鳥会席だとか言いくるめて、これらも強引に含めちゃいなさい。あと、登録したあとのPRでは各種料理人の協力も必要になるでしょうから、そっぽを向かれないように、今のうちに挨拶回りでもしておきなさい。調理師団体は衛生や就労の関係から厚労省の肝入りなので」と言っておきました。例の「食育」って奴の場合、厚労省と農水省と文科省でこいつはうちの縄張りだと取りあいっこしていて迷走していますからね。

 そうしたらいきなり寿司どころか「会席料理」の看板を取り下げて「和食」に替えたので、ずいぶん思い切ったことをするなあ、と思ったんです。ゲイシャガールやティーセレモニーの知名度に頼って登録する作戦だとばかり思っていたのに…。農水省HPに挙げられております和食の特徴をみますと「多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重」「栄養バランスに優れた健康的な食生活」「自然の美しさや季節の移ろいの表現」「正月などの年中行事との密接な関わり」とありまして、ずいぶん観念的だし、程度の差こそあれ他国の料理文化でも言えないこともない。こんなふわっとした説明で大丈夫なのか?

 そんなこんなで心配していたのですが、まあ無事に通りまして一安心。お隣の韓国も「キムジャン文化(キムチ作りとおすそ分けの習慣)」が登録されまして、顔が立ちましたし。キムチそのものが無形文化遺産になったわけではないので、商業的な宣伝に使うなと、ユネスコに釘を刺されていましたけど。

 ところで、この世界無形文化遺産ってなんなのでしょう。報道では料理関係としてもうひとつ2011年登録の「トルコのケシュケキの伝統」っていうのを含めて、「食の文化遺産はこれまでに4つある」というふうに説明されていますよね。ガストロノミー、先住民族の食文化、地中海世界共通の食生活ときて4つめだから、これってかつてヨーロッパを震撼させたオスマントルコを象徴するような究極の料理かと思いきや、“麦粥”って説明されています。いきなりスケールダウンだよ。ちょっと調べてみるといたしましょう。

 なぜか小社は『トルコ料理 東西交差路の食風景』っていう立派な本を出しておりまして、オール現地取材で食材や料理を紹介する凝りようは、他書の追随を許しません、ていうか、どの出版社もついてこようとしていません。なにせコーディネイトした現地スタッフがシリア国境に近い田舎出身で、錦を飾りたいがために自分の故郷に日本のカメラマンを呼んじゃった。そのためいきなり遊牧民の生活の紹介から始まりまして、子ヤギ一頭のさばき方が載っています。イスラムの教えにのっとった屠畜の映像は一見の価値あるものですが、図書館で小学生男子が女子に見せてきゃーきゃー大騒ぎするのに使われているかも。まあ、欧米人からみると小社の魚のおろし方の本も、おんなじように見えるのかもしれませんが。


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 ところがそんなレア映像も載っているこの本にも、ケシュケキは収録されていませんでした。ケシュケキはアナトリアや黒海といったトルコでも田舎のほうで行なわれるものなのに、残念です。

 幸いユネスコの世界無形文化遺産のHPにはケシュケキ作りの動画がアップされていました。おじさんおばさんたちが歌いながら、麦を杵と臼でついて引き割り麦に加工しておりまして、餅つきみたい。肉と一緒に鍋に入れて棒で叩き混ぜてくずしながらどろどろになるまで煮て、トマトソースをかけてみんなで食しておりました。ただし同じ器から直箸ならぬ直スプーン。よーく叩いてガムみたいにびよーんとのびればのびるほどいいそうで、最近はケシュケキ作り用のミキサーもあるそうです。これまた餅みたい。

nazaru.jpg ケシュケキは婚礼料理だと説明されている報道もありましたが、お葬式のときだって作られます。つまり共同体で人が集まる機会に作られる料理ってわけ。日本でいえば餅つきとか芋煮会みたいなもんですかね。レストランのメニューにないのは当然ですし、トルコ人でも都会暮らしの人にとっては縁がありません。ですから、一昨年ケシュケキが世界無形文化遺産に登録されても、話題にならなかったそうです。それよりも、ナザル・ボンジュー(トルコへ旅行した人ならご存じの、そこらじゅうにある魔除けの目玉です)が落選したことのほうが彼らにとって大問題だったそうで。今年は「トルココーヒーの文化と伝統」が無形文化遺産入りしたので、トルコの人も面目が立ったかな?

 それにしてもキムチもケシュケキも料理というよりは、それを作る習慣のほうに焦点があたってますよね。実は無形文化遺産には別に「料理」というカテゴリーがあるわけではないのです。じゃあ食の文化遺産が4つっていうのも、数え方次第でどうにでもなるじゃない。どうして2010年登録の北クロアチアのジンジャーブレッド作りっていうのは含まれないのか、食べられる素材で作ってあっても飾りだからダメなのか、と思っていたのですが、これで合点がいきました。

aenokoto.jpg それなら日本でも能登地方の「アエノコト」という、田んぼの神様に料理をお供えする儀式が2009年に登録ずみ。せっかくだからこれも仲間に入れてあげてよ。アエノコト(アイノコトとも書きます)は、民俗学の世界では民間の新嘗祭として有名な祭り。田んぼから神様を家までお連れして、お風呂に入れて、食事でもてなします。田んぼの神様は目が不自由な老夫婦なので(“設定”とかいうんじゃありませんよ)、主人が手取り足取りお世話いたしまして、料理については一つ一つ説明いたします。二股のダイコンとハチメ(メバルの仲間)がつきもので、ほかにブリや野菜の煮物などをお供えし、あとでみんなでおいしくいただきます。食事だけの行事ではありませんが、料理なしでは成り立ちません。

 アエノコトは1976年には日本の重要民俗文化財に指定されています。実は無形の文化遺産を保護するという制度は世界に先駆けて日本で始まりました。ユネスコの無形文化遺産はそうした取り組みを参考に2003年に条約が結ばれ、2008年から登録がスタートした新しい制度なのです。ユネスコ日本政府代表部でこの条約の成立時から関わってきた七海ゆみ子氏の『無形文化遺産とは何か』には、誕生の経緯や“無形文化”という概念を各国の言葉でどのように共有するのかといった苦労(この条約の正文は6カ国語で書かれているので)などとともに、この制度の全容がまとめられております。この本を読めば、世間がなあんとなく思っている、「日本の重要無形文化財の世界版」「世界遺産の無形文化版」とはけっしてイコールではないことがわかります。

 そもそも無形文化遺産は世界遺産とは同じユネスコでも担当部署は別ですし、設計思想が異なります。最初は「傑作」という形で登録が始まったものの、すぐに「優れているから認定する」というスタンスをとらなくなりました。遺跡や建物、景観を対象とする世界遺産では先進国ばかり認定されることへの反省や、民俗文化の保護が遅れがちな第三世界を支援する目的ではじまったのであって、優劣をつけるためではありません。それで非常に登録が難しい世界文化遺産と違って、ちゃんと書類を揃えて申請すれば原則登録可能とし、文化を維持するコミュニテイの存在や、人類の文化の多様性という視点を重視する姿勢を打ち出しています。

 フランス料理が登録されたのは、料理技術が優れているからではなくて、フランス人のレストランでの会食の習慣が評価されてのこと。地中海世界全体の食習慣と能登半島の家族のお祭りが同列の扱いなのも、文化に優劣はないというスタンスからです。

 ところが中国・韓国がわが国の優れた文化を世界に知らしめるチャンスとばかりにやたらと登録しようとしてきたので、事務作業が膨大なことになりユネスコはてんてこまい。いっぽう日本も、300近くもある国の重要民俗文化財を指定の古いものから順に送り込むという機械的なお役所仕事をするものだから、後ろがつかえてます。これでは本来もっと申請してほしいアフリカやアジア諸国からの登録がさっぱり進まない。業を煮やして1国あたりの申請数を制限すべきという意見も飛び出しました。農水省があせったのはそのせいなんですね。こうした苦悩と問題点は『ユネスコ「無形文化遺産」生きている遺産を歩く』でレポートされております。

 ネットをみていると韓国と中国の世論は無形文化遺産の趣旨をまったく理解していないみたいですね。「和食よりもわが中国料理のほうが優れているのにおかしい」とか(くりかえしますが、優秀かどうかはいっさい関係ないのです)、「日帝に先を越される前に済州島の海女文化の登録を急げ」とか(よく似たものは共同登録すればいいのです。地中海ダイエットなんか今年さらに3カ国が相乗りして7カ国共同になりました)、ナショナリズムを煽る煽る。もっとも日本人だってあんまり変わりません。和食ハラショー日本サイコーっていう論調がおおっていますが、もっと落ち着いて自らの食生活を見直したほうがいいですよ。

 それに「和食、日本人の伝統的な食文化」が世界無形文化遺産になったって報道されていますけど、正確には「和食、日本人の伝統的な食文化 ― 正月を例として」じゃないですか。ユネスコの和食を説明する動画をみると、餅はつくわお重が並ぶわ子供が親御さんの指導で魚をおろすわで、ちょっと赤面しちゃいます。わが家じゃお供えは飾らないし、おせちだって作ってないぞ。毎年買ってきたのし餅を切って紅白なますを瓶一杯作るくらいだよ…。こりゃあ大変だ。皆さんも無形文化遺産の継承作業、がんばってください。

  

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投稿者 webmaster : 16:29

2013年12月25日

『プロのアミューズ・先付コレクション』

06181.jpg『プロのアミューズ・先付コレクション』
柴田書店編
発行年月:2013年12月27日
判型:B5変 頁数:168頁

 月刊専門料理で過去に掲載したアミューズと先付を集めて1冊にまとめました。
数多くの店を取材していますので、さまざまな工夫を見ることができます。

 Fujiya 1935の藤原哲也シェフは、
アミューズを4品ほど続けて出します。
コースの序盤にこうしてアミューズを数品出すレストランも出てきました。

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 数品を一緒に盛り合わせることもあります。
食感や味わいにコントラストのあるものを合わせたり、
共通項でまとめることもあります。

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 本物の野菜のなかにまぎれ込ませて提供するというプレゼンテーションは、
季節感を感じていただくのにぴったりです。

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 トップシェフのアミューズは、おいしいだけではありません。
食べ手にいかに喜んでもらえるかを考えつくした、遊び心のある楽しさも盛り込んでいるのです。


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投稿者 webmaster : 14:23

2013年12月10日

『フードを包む』

06180.jpg『フードを包む』
著者:福田里香
発行年月:2013年12月11日
判型:B5変 頁数:152頁


出る、出ると言いながらなかなか出なかった本書。
お待たせしていたみな様、申し訳ありませんでした。

06180_2.jpg著者自らの手によるラッピング手順のイラストが
無事描き上がったことにより、
どうにかクリスマス前の出版にこぎつけることができました。

06180_1.jpg本書も、旅先や街中の店先で
じっと観察して覚えた包み方あり、
あるとき突然降ってきたアイディアありと、
前作同様著者らしい個性あふれる1冊になりました。

そして、本書初登場の新しいラッピングのアイディアの中で一番のおすすめは、名づけて「ペーパーバックファスナー」。

著者も私たちもワクワクした、簡単で、とってもお洒落なラッピングです。
詳しくは本書をご覧ください。


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*** 著者本  好評発売中!! *********************

05811.jpg『フードラッピング』
 + 50のおいしいレシピ
発行年月:1997年11月26日
判型:B5変 頁数:136頁

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投稿者 webmaster : 16:25

2013年12月06日

料理本のソムリエ [vol.63]

【 vol.63】

畑のトマトをもぎとった少年はおもむろに…


tomato_t.jpg さてさて、ケチャップの話はいい加減これくらいにして、再び生のトマトのお話を。明日にも枯れんばかりだった我が家のミニトマト(vol58参照)は見事回復あそばされまして、ついに結実なさったこの喜びを、早くご報告したくてうずうずしていたのですが、朝ドラにつられて寄り道が過ぎました。もたもたしている間に熟して落っこっちゃうよーと思いきや、開花が遅れたせいと日が低くなってビルの陰になったせいとで、いつまで待っても赤くなってくれません(泣)。

 日本へのトマトの伝来については、横浜の外国人居留地で初めて栽培されたとか、政府が試験栽培したっていう話はいろんなとこに載ってますが、じゃあその後、どんな品種が栽培されるようになって、どんなふうに消費者に受け入れられるようになったのか。たとえばミニトマトって昔はなかったのか…ってのが今回のテーマ。

 結論からいうと、導入当時のトマト品種はいろいろあってバラエティ豊かだったのが、次第に日本人好みのものに絞り込まれて、同じようなものばかり作られるようになった模様です。今の日本のトマトは桃太郎とファーストという二大品種が君臨していまして、どちらも“桃色系”といって皮が透明で薄いタイプなんですが、これは世界的にみると特殊な現象。戦前は皮が赤くて厚い“赤色系”のトマトも作られていましたし(近年は、調理用として再び日本でも栽培されるようになってきましたね)、「金柑トマト」という愛称で、黄色いミニトマトすらありました。

ponderosa.jpg 戦前の品種名を見ているとベストオブオールとかアーリアナとか英語名ばかり目につきまして、アメリカやイギリスの種苗会社から種を導入していたことがわかります。中でも桃色系のポンデローザという大型品種が人気でした。今でもトマトのイラストが、ひだひだのあるつぶれた扁平な姿に描かれるのは、この品種の与えたイメージが大きかったのだと思います(桃太郎はつるんとして丸いし、ファーストはお尻がとんがってるもんね)。これを親にして愛知トマトや世界一なんていう国産品種も作り出されました。

 ちなみにこのトマト、ポンデが発音しにくかったのか昔から「ポンテローザ」とまちがわれることが多く、試しにポンデとポンテでネットで検索してみたら、ヒット数はかなり拮抗していました。ポンデローザのほうが一馬身優勢ってとこでしょうか…。ただし、どうやらポンデローザという名前の競走馬もいるらしくて、これがヒット数に加算されているみたい。おまけにこの馬も「ポンテローザ」としているサイトが結構ありまして、もう何が何やらわかりません…。ちなみにponderosaはラテン語で「重い」という意味なので、バラやレモンや松などにもこの名の品種があるようですね。

 なお宮沢賢治の『黄いろのトマト』にも、このトマトが登場しています。この童話は原稿のみの未発表作で、ミニトマトは表記がチェリーになったりチェリイになったりぶれているのですが、ポンデローザは「テ」になったりはしていませんでした。さすがあ。

<だからね、二人はほんとうにおもしろくくらしていたのだから、それだけならばよかったんだ。ところが二人は、はたけにトマトを十本植えていた。そのうち五本がポンデローザでね、五本がレッドチェリイだよ。ポンデローザにはまっ赤な大きな実がつくし、レッドチェリーにはさくらんぼほどの赤い実がまるでたくさんできる。ぼくはトマトは食べないけれど、ポンデローザを見ることならもうほんとうにすきなんだ。>

 この童話は、博物館のハチドリの剥製(そりゃあトマトは食べないでしょう)が作者に語りかけてきたというストーリー仕立てでして、面白く暮らしていた二人というのは、ペムペルとネリという幼い兄妹。不思議な異国の香りがする話ですので、トマトもそんな外国の野菜という感覚で登場しているのでしょうか…。それでも大正末の宮沢青年にとって、トマトは童話の小道具になるような親近感のある存在だったと思います。

 もちろんその域までたどりつくには、トマトの枝みたいにくねくねうようよ曲折があったのはいうまでもありません。さかのぼって明治の子供たちにとってトマトがどんな野菜だったかは、木村毅の昭和14(1939)年刊行の随筆集『南京豆の袋』に収録された「トマトが初めて村へ来た頃」に描かれております。

 いきなり木村毅って書いてもちょっとわからないですね。だいいち下の名が読めません。同郷の政治家の犬養毅にあやかってこの名がつけられたそうなんですが、キムラ・ツヨシでもタケシでもなくて、キムラ・キって読むそうです。へんなの。彼は文学者でも作家でも学者でもない、自称「投書家あがりの文士」。投書家というのは雑誌への投稿で腕を磨いてきた叩き上げという意味でして、小説や伝記、翻訳書を著すかと思えば、文学史や明治文化史を研究するいっぽうで、編集者としても活躍しておりまして、『明治文化全集』は彼の編集です(vol31の『西洋料理通』が収録されている本。もっとも彼が担当したのは戦後の増補版ですが)。その業績は多岐にわたり、書誌学者の谷沢永一が乗り出して、膨大な著作リストをまとめています。

 ちなみに彼が編集した本の中には昭和26(1951)年刊行の『東京案内記』というのがありまして、戦前の東京案内書が備えていた格調の高さと戦後のタウンガイドのような情報量の多さの両方を合わせもった、過渡期的な作品です。戦禍から息を吹き返した昭和20年代半ばの料理店の動向を調べるのに役立ちます(たとえば会社の近く池の端のうなぎ屋「伊豆栄」はこの時期旅館をしていたとか)。ですがこの本、実は図書館泣かせ。天下に名だたる谷沢先生も東京のガイドなんかにゃとんとご関心がなかったせいかお気づきありませんが、なぜか初版が9月10日と10月25日の2種類あるんです。同業者のカンというか憶測ですが、どうも出版上のトラブルがあって急遽刷り直した気配が…。ひゃー。くわばらくわばら。


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 おおっと、脱線はこれくらいにして、話をトマトに戻しましょう。ところは岡山県の東の勝間田村、ときは日露戦争が始まった明治37(1904)年。村一番の新し物好きの素封家に生まれた木村少年が、10歳のときにもらった一袋のトマトの種をまいてみた顛末、長いのでところどころはしょりながら引用してみます。

<やがて黄色い、小さい花が、葉陰にさきだした。「やつぱりなすだなあ。花の形はこちらのもの(日本の)と同じだ。」と奉公人がのぞいてゐる事があつた。(…略…)私は或る朝、もういゝと思つて一つ千切つて、本能的に鼻口に持つてつてにほひをかいでみた。そして思はずそれを地面へたゝきつけた。それから私は、ふろ場へ駆け込んで、石鹸で手を洗つては、二度も三度も指先をかぎ直してみた。かいでは又、皮膚のすりむける程、石鹸でこすつた。
 私は生まれてから、あんなにひどい、厭らしい、悪臭をかいだ事はないやうに思つた。>

 童話や朝ドラと違って現実の子供ったら横暴な……。いきなり地べたにスプラッタですよ。嫌らしい悪臭って、トマトかわいそう。

<その夏休みに、兄が都会から帰つて来て、庭さきの西洋茄子を見ていつた。『はゝあ、うちでもこれを作つたのかい。拙(まづ)いもんだらう。おれも神戸にゐる時、八百屋の店さきでこれを見つけて、てつきり柿だと思つた。いくらだと聞いたら一銭に三つだといふから、馬鹿に安いなと思つて、買うて帰つて、かぶつて見て吐き出したよ。』(…略…)そして西洋人はこれをどんなんして食べるのかゞ、随分、問題になつた。焼くにしても、煮るにしても、日本のなすのように堅くなくてプヤプヤしてゐるのだから、手が付られない>

 兄弟して、もうさんざんな言いよう。ちなみにこのあと、お母さんがもったいない精神を発揮してぷやぷやする前の青いトマトを漬け物にしたものの、誰も箸をつけなかった、なんてオチも出てきます。

<それから六年たつた明治四十三年に上京したが、あの頃は洋食をたべに行つても、カツレツやビフテキにつくのが、キャベツの刻んだのだつた。
 それからどの位な年月が立つてかであつたかよく覚えてないが、或る洋食屋で始めて紙のやうに薄つぺらに切つたトマトが、刻んだキャベツと一緒に皿の上へ載つて来た。
 「はゝあ、西洋なすが載つて来たとは珍らしいなあ。これはかうして食ふもんかえ」
 「馬鹿! 何が西洋なすなもんか。トマトだい。」
 と、同行の友人(中村白葉君)が教へてくれた。私は始めてそれがトマトといふ名のものである事を知つた。それからいつしか私はその味になれて、馬鹿にトマトを貪食するやうになつた。
 イギリスにゐる時、北の田舎のヨークシャアの古城で開かれた独立労働党の夏期学校の食卓で、私はトマトの皮をむいて食塩をふりかけて食べてゐたら、傍の女学生が不審さうに聞いた。
 『へえ、日本人はトマトの皮を捨てますか。私達はそれをカチリと歯でかみ切つて食べるのに快感を覚えるのですが。』
 これで私ははじめてトマトの皮ごと食べるものである事を知つた。私の遅鈍なる、トマトを完全に克服するまでに正に二十五年かゝつた。>

 明治23(1890)年生まれの翻訳家の中村白葉は、10歳まで神戸で育ったために洋食好きを自認しておりまして、木村兄と違ってトマトに理解があったのでしょう。どうやらトマトはキャベツのせん切り同様、まずは外食の付合せとして認知されたようです。そういえば卯野め衣子さんは木村の一回り年下なんですねえ。すごい世代間ギャップ。明治44年の開明軒たらクロケットの下にトマトの角切りやらパイナップルやら、時代の先端を走りすぎ……って、おっとそれは言わない約束でした。

 ただ明治も37年ともなると、岡山の少年がトマトの種を手に入れることができたところから察するに(どこから手に入れたかは書いてありませんでした)、この頃にはトマトが広く栽培されていたこともうかがえます。お兄さんは神戸の八百屋で馬鹿に安く売ってたって言ってますしね。

 明治42(1909)年、はじめて国の統計にトマトが採用されるようになります。その時の生産面積は39町歩(つまり約39ヘクタール)で、生産量は513トンでした。同じ年のタマネギが945町歩で13700トン、キャベツが2000町歩で33000トンなのとは比べものになりませんが、それでもこの程度の量は作られていたんですね。大正12(1923)年には346町歩で5480トンと、10倍の規模になっていますが、まだまだ洋食の付合せはキャベツが優勢だったってことでしょう。なお『カゴメ一〇〇年史』の資料編によると、大正12年にカゴメ1社が調達したトマトだけで262トンにのぼるそうです。

 生産量は増えたものの加工用の占める割合も高くて、家庭での普及はもうちょっとかかったことでしょう。森田たまのいうように、夏にしか出回らなかったようですし。木村毅のように抵抗感なく食べられるようになった者もいれば、「まったく嫁には困ったもんや、フォンだのトマトだの勘弁してほしいわ」っていう家庭もあったのかもしれません。

tomato_ikomi.jpg 当時どんな食べ方が紹介されていたんだろうと、戦前のトマト栽培書を見ていて驚いたのが、トマトの中身をくりぬいて、そこに卵や野菜なんぞで作った生地を詰める料理がでてくること。これって今でもときたま日本料理店で見かけまして、スタッフド・トマトを真似して戦後に生まれたのかしら、とばかり思っていたのですが、歴史が古くてびっくりです。また水加減した米にトマトの裏ごしを加えて炊く「トマト飯」なんてのもありました。リゾットもどきみたいですが、当時の人たちは炊込みご飯の一種としてとらえていたのでしょうか。

 こうした今で通用しそうなハイカラ日本料理がある一方で、昭和になっても相変わらず、トマトの臭いが気になる人はゆでろとか(湯むきが目的じゃなくてトマトの風味を抜くのです)、塩ではなくて、砂糖だのジャムだの酢だのをかけろなんていう乱暴な食べ方が紹介されておりました。そもそもポンデローザが人気だったのもトマト臭が薄かったからでして、でかいぶん大味だったようなのですが、それが食べやすくて受け入れられた模様です。

 前に日本ではフルーツみたいな味のトマトが喜ばれると書きましたが、隔世の感があります。トマト自体の味もそうですが、われわれの味覚もずいぶん変わったってことでしょう。“温室育ちのトマト”(実際には施設栽培だからといって促成とは限らないのですが)を嫌う人は、「畑でその場でもぎって食べたトマトは、トマトらしい香りがしておいしかった」なんていう昔話をよくされますが、そんな経験と感覚をもつ世代っていうのも、意外と期間限定なのかもしれませんね。


  
 

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投稿者 webmaster : 13:45