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2012年11月28日

料理本のソムリエ [vol.48]

【 vol.48 】

法善寺横丁と落第横丁と

 前回紹介した『専門料理』連載用の料理完成写真にえびの揚げ物みたいなのが写っているけど、今月号に見当たらないじゃないか!とお怒りになっている方はいませんか? 実はここには雑誌未収録の料理も写っております。というのも、品数も魚種も増やして単行本化すべくプロジェクトがひそかに動いておりまして。おかげで大阪に行く機会がめっきり増えました。しめしめ。

 追加撮影の会場は法善寺横丁の「喜川」さん(喜の字はご存知の通り七みっつなんですが、許してね)の2階にて。この横丁もかなりお店が入れ替わりましたが、ぜんざい屋の「夫婦善哉」や「正弁丹吾亭」、そして店の軒先の織田作之助の歌碑は健在です。

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(左)夫婦善哉
(右)法善寺の水掛不動

 西鶴と文楽を愛し、戦後の闇市時代を走りぬけるように生きた“オダサク”こと織田作之助。『夫婦善哉』が有名すぎて人情物作家のようなイメージもありますが、ヒロポン中毒で逝った彼は太宰治同様、無頼派と目されております。来年は生誕100周年でして、中之島図書館ではそれを記念して先週まで特別展も開かれておりました。

 大谷晃一がまとめた伝記『織田作之助 行き、愛し、書いた。』によると、彼は大正2年、生玉町前の生まれで、家業はすし店兼鮮魚店。父織田鶴吉は料理店「浮瀬」の元板前でありました。
 浮瀬は日本の料亭の嚆矢であり、江戸時代の大阪で「西照庵」と並んで人気を二分した名店。寛永年間に清水寺の茶店としてスタートし、芭蕉や蕪村、馬琴や江漢、さらにシーボルトらオランダの商館員たちも利用しました。大きな貝殻を加工して酒器にした「浮瀬」や「鳴戸」、朱塗りの「七人猩々」などが名物で、わざわざそれを見るために全国から訪れる人が絶えません。その盛名を借りて、京都や江戸にも同じ名前の店が登場するほどです。

 とはいうものの鶴吉が勤めた明治20年代の浮瀬はかつての勢いはありませんでした。店を切り盛りしていたのは福浦イハという女性だったとのことで、すでに店のオーナーは変わっていたのかもしれません。23年にイハは亡くなり、この頃店も閉じております。浮瀬200年の歴史については、坂田昭二氏の畢生の作『浮瀬奇杯ものがたり』でまとめられておりまして、また稿をあらためて。

minokichi.jpg ちなみに織田作之助の絶筆「土曜夫人」は、戦後間もない京都が舞台でして、大谷の伝記では、そこに出てくる貸席「田村」は「美濃吉」がモデルとされております。ただし、享保年間に三条大橋のたもとで開業した料亭美濃吉は、戦中は本店の土地建物を売却して給食事業に携わっておりました。粟田口で料亭を復活させたのは昭和25年のことです。昭和22年に読売新聞に連載された土曜夫人に登場するマダム貴子は、その旧美濃吉の施設を購入した大阪のやり手女将がモデルですからお間違えなきように。

 さて時計のねじをいささか回しまして、昭和20年3月13日の大阪空襲の1カ月後の話。織田は4月22日号「週刊朝日」の「起ち上る大阪」で、空襲にもめげない千日前の喫茶店主と書店主を取り上げて、こう記しました。

<「あんた所が焼けたので、雑誌が手にはいらんようになったよ」
 すると三ちゃんは、滅相もないという口つきを見せて、「何いうたはりまんねん。一ぺん焼かれたくらいで本屋やめますかいな。今親戚のとこへ疎開してまっけど、また大阪市内で本屋しまっさかい、雑誌買いに来とくなはれ」>

 実際三ちゃんは戎橋通の表札屋の軒店に移転して、新刊書の本屋を開業しました。織田は終戦直後の9月9日号の後日談「永遠の新人」で触れております。

<ささやかな店で、書籍の数も中学生の書棚くらいしかないが、それでもこの店は大阪の南で唯一軒の新刊書を商う店だと、三ちゃんは自慢している>

 この三ちゃんこそが、われらが波屋書房の2代目主人、芝本参治さんです。この一件、ブログのネタとして温めていたら「大阪春秋」の最新号でとりあげられちゃった。後塵を拝してちょっとがっかりですが、さらに掘り下げていきましょう。

 実はこの文章は、意に沿わぬものだったと織田は1年後の「神経」の中で語っています。

<…その南が一夜のうちに焼失してしまったことで、「亡びしものはなつかしきかな」という若山牧水流の感傷に陥っていた私は、「花屋」の主人や参ちゃんの千日前への執着がうれしかったので、丁度ある週刊雑誌からたのまれていた「起ち上る大阪」という題の文章の中でこの二人のことを書いた。しかし、大阪が焦土の中から果して復興出来るかどうか、「花屋」の主人と参ちゃんが「起ち上る大阪」の中で書ける唯一の材料かと思うと、何だか心細い気がして、「起ち上る大阪」などという大袈裟な題が空念仏みたいに思われてならなかった。…(略)…ところが、戦争が終って二日目、さきに「起ち上る大阪」を書いた同じ週刊雑誌から、終戦直後の大阪の明るい話を書いてくれと依頼された時、私は再び「花屋」の主人と参ちゃんのことを書いた。言論の自由はまだ許されておらなかったし、大阪復興の目鼻も終戦後二日か三日の当時ではまるきり見当がつかず、長い戦争の悪夢から解放されてほっとしたという気持よりほかに書きようがなかったので「花屋」のトタン張りの壕舎にはじめて明るい電燈がついて、千日前の一角を煌々と照らしているとか、参ちゃんはどんな困苦に遭遇しても文化の糧である書籍を売ることをやめなかったとか、毒にも薬にもならぬ月並みな話を書いてお茶をにごしたのである。
 そして、そんな話しか書けぬ自分に愛想がつきてしまった。私は元来実話や美談を好かない。歴史上の事実を挙げて、現代に照応させようとする態度や、こういう例があるといって、特殊な例を持ち出して、全体を押しはかろうとする型の文章や演説を毛嫌いする。ところが、私は「花屋」の話や参ちゃんの話を強調して、無理矢理に大阪の前途の明るさをほのめかすというバラック建のような文章を書いてしまったのだ。はっきり言えば、ものの一方しか見ぬリアリティのない文章なのだ>

 起ち上る大阪というタイトルも「文章を書く人間の陥り易い誇張だった」とし、自己嫌悪の念が湧いて来たとまで告白する織田作之助。自らの一言一句をとぎすまそうとする気迫が伝わってきます。歴史人物になぞらえたり威勢のいい文句であおったりで、軽々しく思いつきのご高説をふりまく今のマスコミや政治家は爪の垢でも煎じてご賞味あれ。

 さてそんな落ち込み気味の織田の前に、三ちゃんならぬ参ちゃんは三たび現れます。

<声のする方をひょいと見ると、元「波屋」があった所のバラックの中から、参ちゃんがニコニコしながら呼んでいるのだ。元の古巣へ帰って、元の本屋をしているのだった。バラックの軒には「波屋書房芝本参治」という表札が掛っていた。
「やア、帰ったね」
 さすがになつかしく、はいって行くと、参ちゃんは帽子を取って、
「おかげさんでやっと帰れました。二度も書いてくれはりましたさかい、頑張らないかん思て、戦争が終ってすぐ建築に掛って、やっと去年の暮れここイ帰って来ましてん。うちがこの辺で一番はよ帰って来たんでっせ」と、嬉しそうだった。お内儀さんもいて、「雑誌に参ちゃん、参ちゃんて書きはりましたさかい、日配イ行っても、参ちゃん参ちゃんでえらい人気だっせ」…(略)…お内儀さんは小説好きで、昔私の書いたものが雑誌にのると、いつもその話をしたので、ほかの客の手前赤面させられたものだったが、しかし、今そんな以前の癖を見るのもなつかしく、元の「波屋」へ来ているという気持に甘くしびれた。本や雑誌の数も標札屋の軒店の時よりははるかに増えていた。
「波屋」を出て千日前通へ折れて行こうとすると、前から来た男からいきなり腕を掴まれた。みると「花屋」の主人だった。
「花屋」の主人は腕を離すと妙に改まって頭を下げ、
「頑張らせて貰いましたおかげで、到頭元の喫茶をはじめるところまで漕ぎつけましてん。今普請してる最中でっけど、中頃には開店させて貰いま」
 そして、開店の日はぜひ招待したいから、住所を知らせてくれと言うのである。住所を控えると、
「――ぜひ来とくれやっしゃ。あんさんは第一番に来て貰わんことには……」
 雑誌のことには触れなかったが、雑誌で激励された礼をしたいという意味らしかった>

 美談が嫌いとワルぶっているオダサクですが、心底うれしかったのだと思いますよ。『夫婦善哉』で活写されているように、彼の目は大阪の庶民の暮らしに注がれておりました。
 ちなみに織田作之助全集には収録されておりませんが、昭和20年5月20日の東京新聞には「東京サン!」という短文を寄せております。3月の空襲で焼かれた東京の安否をラジオ局のコールに託して気遣い、いまラジオドラマ制作中の大阪の役者は悪条件下で頑張っているから東京も負けるなという趣旨のこの短文も、彼にとっては意に染まぬものだったのでしょうか…。私はこれもまた彼なりの優しさの表れだったと思うのですが。

 実は彼は昭和12年から13年にかけて本郷で下宿しており、東京には知己もおりました。お気に入りだったのが、現在の本郷郵便局脇にある落第横丁の「ペリカンレストラン」です。学生街らしくおでん屋(もちろん震災後に関西から進出してきた関東煮屋ではありません)や喫茶店などが並ぶ横丁の中で異色だったこの店、太宰治や武田麟太郎など文学青年たちが出入りしておりましたが、昭和14年のある日突然古本屋さんに模様替えしまして、常連客を驚かせております。店主の品川力氏は内村鑑三研究で知られ、誤植に厳しく、その著書『本豪落第横丁』では冒頭から「書物に索引を付けない奴は死刑にせよ」なんていう出版社が震え上がるような警句を吐く読書人でありました。

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(左)落第横丁入り口の看板
(右)現在の落第横丁


perikan.jpg 織田作之助が昭和22年に取材で訪れていた東京で息を引き取ったとき、品川氏も骨を拾いました。そんな品川氏も平成18年に亡くなり、今はペリカン書房の看板が残るのみです。 織田が下宿していた秀英館はとうになく、東京の落第横丁は正直なところただのありふれた路地で、当時を偲ぶよすがはありません。

 いっぽう法善寺横丁はといいますと、今も水掛不動は苔むしておりますし、織田作之助の碑だけでなく、岸本水府の句碑や藤島恒夫の「月の法善寺横丁」の歌碑などがあちこちに並び、かつてをしのばせてくれます。もちろん空襲で焼けているので戦前のままではありませんし、平成14年9月、15年4月と近年立て続けに二度の火災に見舞われましたが、石畳の風情は失われておりません。

 何度でも起ち上る大阪はたくましい。「せやろ、せやろ、けッけッけッ」と上機嫌なオダサクの独特の笑声が聞こえてきそうです。

  
 

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投稿者 webmaster : 2012年11月28日 20:17