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2012年12月27日

料理本のソムリエ [vol.50]

【 vol.50】

ミシュラン?なにそれ?美味しいの?

 いやあ、もうクリスマスだなんて一年は早いですねえ。いつもの年は「仕事ですよ、仕事!」っていう堂々たる言い訳が利きましたが、今年は何の因果かクリスマスイブが連休の最終日。旅行先で聖夜をお迎えの方もいらっしゃったことでしょうね。「みんなハッピーってわけじゃないんだってばクリスマス!」

 ところがですよ、どうもクリスマスどころじゃないそうじゃありませんか。何でも21日から23日にかけて大異変が起きて世界が終わるという耳より情報が飛び込んできました。マヤ文明の長期暦が2012年12月21日で終わっているのがその証拠だそうで。なあんだ、じゃあ原稿を書いても無駄じゃない。この連休はコタツでごろごろしてよっと。ぐう。

 そんなこんなで今26日です。なぜだっ。

senmon199012.jpg クリスマスはレストランにとって一番の書き入れ時で、仕入れとメニュー内容、仕込みやオペレーションをどうするかは、皆さん頭を悩ませるところ。そこに焦点をあてた1990年12月号の月刊専門料理のクリスマス対策特集は、折りしもバブルがはじけつつあった微妙な時期だったこともありまして、参考になると喜ばれました。

 そんな私はといえば、クリスマスにレストランに行ったことなんて…行ったことなんて(涙目)…おお、思い出した! ありましたよ、雑誌の先輩たちと一緒に(笑)。「ホントだ、同じ鹿でも仕入れを確保しやすいニュージーランド産だっ」「どのテーブルも同じ料理が同じタイミングでサービスされている!」なんて大興奮。いま考えたらすごく場違いなグループだったと思いますが、なあにカップルなんて周囲なんか目に入りませんてば。

 もっともどのカップルも幸せとは限りません。クリスマスに奮発したフランス料理店でうまくふるまえず、それがトラウマになって大衆料理以外は認めないと心に誓ったり、逆にいつか見返してやるとモーレツに知識を溜め込む人たちがいるようです。後者のガリ勉タイプは料理以外の、あの店のオーナーはどこだとか業界の構造だとか「俺しか知らない裏話」が好きですね。芸能ゴシップ好きの中学生みたい。

 不思議で仕方ないのはそうしたガリ勉タイプのグルメさんの間に、「自腹で食事をしないと評価ができない」という主張がみられることです。そりゃ身銭をきれば身につくことも多いでしょうが、書評や映画評論や音楽評論や演劇評論は、みんながみんな自分のお金を払って本を読んだり試写会に行ったりアルバムを買ったりチケットを取ったりしているのでしょうか…。「自分はこんなにお金をつぎこんだ」「こんなにたくさんの店で食事した」というのがご自慢の方たちは、AKB劇場に通えばいいのに。

 こうして誕生した自称グルメさんたちは、「こんなに料理にうるさい俺ってすごくね?」という性格のようにお見受けします。「料理店が好き」「食べることが好き」「いま食べている料理が好き」なんじゃなくて「いま料理を食べている俺が好き」。普段は奥さんに頭が上がらなかったり、後輩にうっとうしがられたりしている人も、料理店に行けば下にもおかず顔を立ててくれますから、そんなナルシストでも気持ちよく過ごせますしね。

 ただし、彼らは自分より手厚くもてなされている奴が世の中にいるなんて我慢ならない。たまたま隣に座っている人が店のご贔屓筋で、料理長が挨拶にきた挙句にサービスの1品でも出してもらっていたのに気づいた日には、不倶戴天の敵に会ったような目で睨みます。背中越しに。その場では「お、おいしかったよ」と震える声で会計をすませて、すごすごおうちに帰ったとたんに鬱憤のすべてを恨み日記にぶつけるわけです。今はブログとかグルメサイトとかあってすぐにアップできて便利ですね。

 他人にご馳走されるといくらかかったかわからない、という主張はまだ納得いくのですが(ただ、値段がわかっても満足度は本人の懐具合や胃袋の大きさにも左右されるから、絶対的な指標にはならないとも思うんですけどねえ。「この本は2000円なのに500ページもあってすばらしい」っていう書評はあんまり見当たらないよねえ)、さらに覆面調査でないとダメとおっしゃる方もいらっしゃいます。顔見知りのお客に出す気合の入った料理では、その店の真の実力はわからない、というご主張のようです。

 これは3割くらい真実ですが、7割くらい見当はずれです。正直な話、有名ひょーろく玉…じゃなかった評論家が来るからといって、そうそう特別な料理はできません。そんな臨機応変なシェフは、そのことだけでも実力がある証拠です。とくにチームプレイで仕事をしている高級フランス料理店ともなると、急にレベルを変えることはできません。せいぜいお高い食材の盛りをよくするとか、おまけの一品がつくとか、お値段を勉強するくらいですかねえ。あ、有名評論家はただで飲み食いするそうだから、値段は関係ないか。

 料理店がヒョーロン家様に便宜を図って、都合のいい記事を書いてもらっている、なんて話はステマが話題になるはるか以前から言われていることですが、そうでもしなきゃ人気を維持できない店は早晩だめになると思うんですが…。掲載料をとって店を載せるガイドブックってのも昔からある手法ですが、情報過多の時代ではもはや通用しませんよねえ。

 そもそも「ステマを告発!」なんて息まく人たちも、実は特別待遇を受けている(に違いない)ヒョーロン家諸氏がうらやましくって悔しいんじゃないかしら、ってうがちたくなります。ナルシストというのはひがみっぽくて傷つきやすいものでして、自分が特別扱いされない現実を直視したくないし、顔を知られると陰であることないこと好き勝手に書けなくなるし、直接反論されるのが怖く怖くて仕方ない。その点、匿名なら安心安心。

「俺ってお世辞を言わない本音評論家だからさ」、なんていうのもありますね。内弁慶のまちがいでは? お店のことを思ってのきついアドバイスなら直接その場で伝えてあげてください。ホントに偉いのはたとえどんなに贔屓されたとしても、面と向かって堂々と欠点を指摘できる人で、そういう評論家なら煙たがられても尊敬を集めると思いますよ。

 これから料理ヒョーロン家を名乗ろうとする人は、年間に通う店の数や妄想たっぷりのギョーカイ裏話で煙に巻くのではなくて、その視点の鋭さと分析の正しさ、表現力を売りにしてのし上がってほしいですね。なにせほとんどの人たちは、読者に納得してもらうのは大変だからでしょうか、てっとり早く誰かを貶めるものばかり。叩くことで権威づけして優位に立とうとするわけですね。「塩っぱい」「冷めている」「だしがうすい」「感動しない」…。文句をつけるのは駄々っ子だってできますし、異論に対しては「そりゃ、チミの感覚が鈍いからだよ」と開き直ればよろしい。辛口毒舌なほど偉いなら、このブログなんてそりゃもう相当なもんです(笑)。

 落語の「子ほめ」からわかりますように、実は大変なのはほめるほうでして、第三者にもそのよさを納得してもらうのは難しいことです。それでは彼らはけなしてばかりでは芸がないのでほめるときはどうするかというと、誰から見ても問題なさそうな老舗か、逆にまだ誰も知らない新店をほめます。これなら反論される心配はありませんし、「こんな老舗に常連の俺ってすごくね?」「こんな店をもう知ってるなんて俺すごくね?」という自尊心を満足できます。そうしておいて、みんなが通うようになったところで、「あそこの店は味が落ちた」とけなします。上げて下げて二度おいしい。

 こうしてみると3段階の格付だけで勝負するミシュランガイドというのは、それなりに良心的かつ言質をとられにくい賢いシステムなのがよくわかります。ミシュランの調査手法については、元調査員だったパスカル・レミが『裏ミシュラン―ヴェールを剥がれた美食の権威』で明らかにしています。ミシュランガイドに似せた装丁にしたため無駄にでかい文字組のこの本、邦題から連想するような内部告発的暴露本というよりは、芸能記者の語る裏話的な内容です。覆面調査といっても食事後はシェフに話を聞いたりすることも多いようで、身分を明かすのはかまわないようです。むしろ身分を明かして水戸黄門のような快感を味わってまして、大丈夫かしらとこっちが心配になるほど。もっとも調査員というのはかなりの激務で(レストランだけでなくホテルの格付もするわけですからずっとドサ回り)、そんなちょっとした楽しみがないとやっていられないようで、同情いたします。

 意外と地味なミシュランの調査がいかにブランドを勝ち取ったか、その歴史と編集方針の変化については、最近『三つ星と世界戦略』が出版されました。またミシュランを生んだフランスの食ジャーナリズムについては『フランス料理と批評の歴史』が力作です。

 これらの本にも書かれておりますが、ミシュランというのはタイヤメーカーなので、その出発点はマイカー族のための旅行ガイドでした。ですから移動先で快適にすごすために、という視点で編集されておりまして、その店がどこにあるか知っていないと掲載ページにたどりつきづらく、料理人名から検索できず、ネットで公開される前は不便なものでした。バブル真っ盛りの頃には、フランスからシェフを招聘しようとしているホテルの広報だか代理店だかから、「○○というフランス人シェフの星の数を教えてくれ」なんていう問合せが何度か会社にかかってきましたっけ(それも有名人ならいいのですが、どっかの田舎の1ツ星シェフばかりで)。どうしてそんなことも知らずに日本に呼ぼうとしたんだろう?

frans_restaurant_best50.jpg 一方、作り手に焦点をあて、著者独自の視点から格付するガイドとして一世を風靡したのがアンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨの共著「ゴー・ミヨ」です。保守的なミシュランに対して、ヌーベルキュイジーヌという料理界の動きを評価したいというジャーナリストらしい主張で始まったものの、二人は途中で袂を分かちます。アンリ・ゴーは一人でガイドを出版し、88年には小社から『フランスのレストランベスト50』として翻訳されましたが、21世紀を迎える前に亡くなりました。一方クリスチャン・ミヨのほうはゴー・ミヨの出版を続けますが、ヌーベルキュイジーヌブームの終焉とともに編集方針の主軸を失ってしまいます。書き手の顔の見えないミシュランの無敵さはここでも証明されています。

 いま日本で見られる料理ガイドはおおむねゴー・ミヨのスタイルですが、ジャーナリズム魂の代わりにお客様気分と業界人気取りが詰まった「俺好みの店ベストテン」の域を出ておりません。『東京いい店うまい店』のように複数の覆面調査員に基づくものもありますが、各店の紹介文には調査員の主観と意見があふれておりまして、むしろ不安を掻き立てられます。どうして日本ではミシュランのような一歩引いた格付が見られないのでしょう。

 そもそも日本には「見立番付」という立派な格付システムがありまして、これはミシュランなんぞよりもずっと古い。相撲番付に見立ててランク付けするもので、これは評価システムというよりも「給食で一番好きだったものランキング」と同じような、一種の遊びですね。vol45で紹介した「浪花みやげ」にもこうした番付が収録されております。

hyoubanki_1.jpgまたもう少し批評色の強い「評判記」という伝統もあります。岩波新書の『江戸名物評判記案内』によりますと、上上吉という日本独自の表示方法で、役者から学者、小説、名物までありとあらゆるものにランク付けをいたしました。講評ものせているのが番付と違う点ですが、欠点を指摘する「悪口」担当者がいれば、支持を表明する「贔屓」がいて、全体を総括する「頭取」が仲裁するというふうに役割分担のある架空対談形式をとります。なあなあで丸く済ませるのが日本的だ、と思われるかもしれませんが、万人を不快にさせずに文章力で納得させる、高等技術だともいえます。

 残念なことにこうした伝統が失われた挙句に、ネットの世界は自称グルメさんたちのレビューで一杯。そこにきて本家の黒船襲来です。日本版ミシュランを叩くことで溜飲を下げるとともに、相対的に自分の地位を高く保とうとする人もいますが、デートにせよ接待にせよ、世の中の圧倒的な人たちは「星がたくさんついている有名店に行きたい」わけでして、「なんとかいう料理ヒョーロン家がほめている知る人ぞ知る店」っていうのに対するニーズはそんなに高くありません。どうも勝負は見えている気がします。

 じゃあ、そんなミシュランがすばらしいかといいますと…あははははのは。日本版のミシュランはよせばいいのに画質の悪い写真と店の中途半端な紹介文という蛇足がついてますからねえ。フランス料理のシェフたちが、若い頃あこがれだったミシュランの星に心がざわつくのはわかりますが、日本料理の料理人さんまでもが振り回されるのは見ていて残念。イタリア人はミシュランなんて意に介せず、『ガンベロロッソ』のほうを気にしますよ。

 こんなに手厳しくてあとでいろいろ言われないかって? だあいじょぶですよー。実は私、大変なことに気づいてしまったのです。去年の今ごろ古本屋さんにもらった神宮館高島暦は12月の31日で終わっていたんですよ。それどころか会社に貼ってある印刷会社のカレンダーもその先がない。
「2と3を寝ぼけて見違えたんだっ! マヤの予言は12月31日のことだったんだよ!」
「な、なんだってー!!」

 それでは皆さま、よい終末を。


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投稿者 webmaster : 2012年12月27日 19:48