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2010年09月09日

料理本のソムリエ [ vo.8 ]

【 vol.8 】
帝国ホテル初代料理長のノート

 前回の続き、かけ蕎麦の始まりについて…と言いたいところですが、
ちょっと寄り道です。

teikoku.jpg いま、日比谷の「帝国ホテル」では「帝国ホテルと芸術都市パリの輝き ―1890」というロビー展示を開催中で、遅まきながら見学してきたばかりなものでして…。帝国ホテルは今年が120周年。それを記念しての企画です。会期は9月30日までですので、ご関心のある方はお急ぎを。ちなみに柴田書店は今年60周年。ちょうど半分ですね。「柴田書店と文教地区本郷の賑わい ―1950」を文京区役所あたりでロビー展示するには、あと60年頑張る必要がありそうです。その布石として、小社のほうは全国書店でブックフェアの開催中ですので、こちらもお見逃しなく。

 さて帝国ホテルが誕生した1890年は、フランス革命から101年後。前年の1889年には革命100周年を記念した博覧会が開かれ、エッフェル塔が建設されています。ちなみにパリの「ホテル・リッツ」開業は1898年。当時のヨーロッパの観光文化やホテル文化も進化の最中であり、そうした同時代の最新モードを意識しての開業だったことがよくわかります。

teikoku_1.jpg 帝国ホテルというとフランク・ロイド・ライトが設計したライト館が名高いですが、今回の展示では大正11年(1922)に焼失した木造時代の旧館の写真も見ることができます。焼失当時、新館のライト館は本来なら竣工していたはずでしたが、天才のインスピレーションに振り回されて工期が遅れに遅れ、まだ建設途上でした。帝国ホテルは3年前の大正8年にも別館が焼失したばかりで、いよいよもって経営の一大危機を迎えます。そのため、当時の支配人の林愛作氏は責任をとって帝国ホテルを去ることになります。

 そのほかにもライト館をめぐるエピソードは尽きません。フランク・ロイド・ライトと日本人建築家下田菊太郎との確執、新築披露のパーティ当日に迎えた関東大震災、林氏の後を継いだ犬丸徹三支配人のライト館に対する複雑な感情、戦後のライト館取り壊しと保存問題……。もっともこれらについては、すでにいろいろなメディアに取り上げられています。詳しくは『帝国ホテルライト館の謎』に譲るといたしましょう。

 帝国ホテルの支配人というと犬丸徹三、犬丸一郎父子が有名で、ライト館建設に奔走した林氏の存在は長らくその影に隠れていました。それが20年前の開業100周年の際に出版された社史『帝国ホテル百年史』において再びスポットが当たり、林氏の功績が広く知られるようになったそうです。社史というと戦前の出来事などは適当にさらっと流しておいて、調べやすい最近の話題と企業の都合のいい情報だけを盛り込んだいい加減なものも少なくないのですが、この本は1000頁を越えるぶ厚さで、日本のホテル史資料としても使える内容の濃いもの。当時の新聞や雑誌にも目配りして資料を収集しております。
また同ホテルは『帝国ホテル百年の歩み』も同時刊行していますが、どちらも私家本なので、図書館でなければ見ることは難しい。社史編纂チームのメンバーのひとり、武内孝夫氏が『帝国ホテル物語』をまとめておりますので、こちらをご覧になるのがよいでしょう。ちなみに帝国ホテルを去った林支配人のその後に関しては、昨年出版された『甲子園ホテル物語』にて知ることができます。日本の旅館文化を取り入れた新しいホテルの姿を模索する林氏の先見の明に驚かされます。

 さて、そんな総力を尽くした『百年史』ですが、帝国ホテル初代料理長については「吉川某」とあるのみで、未詳とされておりました。第一ホテル支配人にして食文化史研究家でもあった村岡實氏は中公新書の『日本ホテル小史』中で、パレスホテルに在籍していた田中徳三郎シェフから1971年に聞いた話として、吉川シェフは横浜の「グランドホテル」系だったと紹介していますが、それ以上の情報はありません。田中シェフは大正2年(1913)の帝国ホテル入社なので、先輩から伝え聞いていたのでしょう。先の大正8年の火災のために帝国ホテルの古い資料は失われており、同社に吉川シェフに関する文献は残っていなかったそうです。

 ところがこのたび吉川シェフのフルネームが判明し、今回の展示で写真も披露されました。7月21日付の東京新聞朝刊によると、一昨年ひ孫にあたる方から帝国ホテル側に連絡があり、明らかになったそうです。
 新聞報道によると初代料理長の名は吉川兼吉。1853年生まれで横浜グランドホテルで修業したのち、鹿鳴館を経て、帝国ホテルに入ったとのことです。鹿鳴館というと日本人高官が慣れない格好でステップを踏むダンスホールなんていうイメージがありますが、営業形態としてはホテルだったのです。

 横浜グランドホテルの沿革については、『横浜外国人居留地ホテル史』がもっとも正確でしょう。戦前のホテルの歴史をまとめた研究書としては、運輸省観光部に在籍していた宮川肇氏がまとめた『日本ホテル略史』が筆頭に上げられるのですが、なにぶん敗戦まもない1946年の刊行でして、間違いも散見します。その点、各開業年で横浜の外国人ホテルを整理した同書では、改装休業中だった横浜グランドホテルの営業再開日が明治6年(1873)8月16日であることをつきとめるなど、『日本ホテル略史』の誤りを訂正しています。
 同書によると横浜グランドホテルは新規開業からしばらくの間、料理長が二転三転したのですが、初代料理長はフランス人のルイ・ベギューだったそうです。ベギュー(Beguex)は村岡氏の『日本人と西洋食』では、江戸幕府の支援で開かれた日本初の本格的ホテルである「築地ホテル」の料理長として、新発見の明治4年(1871)の晩餐会のメニューとともに紹介されています。ひょっとして同一人物かもしれません。築地ホテルが明治5年(1872)に焼失してしまった後、横浜に移ったと考えればつじつまが合います。彼は明治8年(1875)にレストランを開業するためにホテルを辞めるのですが、うまくいかなかったのか、今度は明治15年(1882)に「神戸オリエンタルホテル」の前身である「オテル・ド・コロニー」を立ち上げております。
 これらのホテルはどれも帝国ホテルと同クラスの高級ホテルであり、多くの料理人が巣立っています。ルイ・ベギューの功績はなかなかだと思うのですが、その名前自体が正確なのか不安ですし(神戸オリエンタルホテルの経営者は日本ホテル略史にはL.Bageaxと書かれているそうなのですが、これでは発音はバゴ。そのせいかルイ・ビゴーと紹介し、ベギューとは別人としている本もあります)、謎に包まれた人物です。

 なお横浜グランドホテルは関東大震災の被害を受けて廃業してしまいますが、それに代わるホテルとして横浜市の支援のもとで、昭和2年(1927)年に「ニューグランドホテル」が開業します。こちらのホテルもまた料理に力を入れていたことで知られ、スイス人のサリー・ワイル料理長の下では、荒田勇作、馬場 久、小野正吉ほか多くの料理人が修業しています(ワイル氏に関しては『初代総料理長サリー・ワイル』という評伝が出ております)。ちなみに帝国ホテル4代目料理長の内海藤太郎氏は、ワイル氏の下に就いた後、神戸オリエンタルホテルの料理長に就任しておりまして、これらのホテルの厨房に交流があったことがわかります。

 さて本好き料理好きとしては、今回のロビー展示でもっとも目を引いたのは吉川兼吉の料理ノート(複製)でした。その隣には、先だって亡くなられた村上信夫料理長のノートや氏がフランス修業中に購入したラルース・ガストロノミックやギッド・キュリネールも展示されておりました。村上氏のノートはラヴィオリの作り方のメモ。吉川シェフのノートもラヴィオリについて書かれたページが開かれておりまして、気がきいております。
 ラヴィオリのページの隣は牛腎臓洋酒煮。吉川シェフは腎臓にロギョンとルビをふっていることから、フランス語については、耳からではなく読んで学んだと思われます(フランス語で腎臓はrognonとつづりますが、発音はロニョンですから)。となるとルイ・ベギューの下で直接学んだわけではなかったのか……。いろいろ想像が膨らみます。
 先の新聞によると吉川シェフは帝国ホテルを辞めたあと、明治天皇や朝鮮の李王家の料理人を務め、1935年に朝鮮の地で亡くなったとか。後半生もエピソードに満ちていそうで興味がつきません。日本の西洋料理の基礎を作った料理人となると、フランスに渡って修業した田中徳三郎氏や秋山徳蔵氏などが有名ですが、それも、前の世代が築いた基礎があってこそ。西洋料理黎明期の開拓者たちの功績は、さらに掘り起こしていかねばならないでしょう。



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投稿者 webmaster : 2010年09月09日 14:45