Pâtissier
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杉す野の英ひ実み記憶に残る味をつくるオーナーシェフ職人のDEMSUGNO覚悟❷イデミスギノレストランでの経験からフレッシュ感重視の考えにが誕生日祝いに自分が勤めるホテ 「フランス菓子ってこういうもを覚えています。当時の日本のバ口溶けが悪くてよい印象はなかっ当時そのホテルのシェフをしてと思ったきっかけは、ルコントさんの菓子だったのです。母は小さいた。彼の店に就職したかったので所属は東京の調理部のパティスリー部門でした。見習い時代は字のが、何か聞くと怒られました。ま初めてフランス菓子に出合ったのは14歳の時です。それは、母親ルのパティスリーで買ってくれたもので、飾りにバラの砂糖菓子がのっていた可愛らしいバタークリームのケーキでした。のなんだ!」とえらく感動したのタークリームは植物性油脂が多く、たのですが、そのケーキはすごくおいしかった。本物のバターを使っていたからだと思います。いたのがアンドレ・ルコントさんでした。僕が菓子の世界に入ろう時からおいしいものを食べさせてくれたし、僕自身、味覚はしっかりしていたほうだと思います。きれいなものも好きでした。僕が高校を卒業するころにはルコントさんは独立されていましすが空きがなく、ルコントさんが勤めていたホテルに入社。最初のとおり「見て習え」が基本で、先輩には可愛がっていただきましたさに見て習え、です。一見理不尽にも思えるでしょうが、見て感じてそこから「考える」ということはたと思っています。コピーとは違います。この色とこるのか、そう考えながらくり返すのが模写の大事なところ。模写をくり返すなかで月日が経ったら自分の形が見えてくるということとしていくことで技術を高めてこられたと思っています。人から聞くだけでは技術はのびない。そう思います。ラン部門でした。ブティックの菓子だけではなく、パンやデザートもつくるようになりました。料理のことにも興味をもち、よく食べにました。とくにフランスに行こうール』という料理事典で何かにつけてはフランスの料理をいろいろ調べたり、■静雄先生の著書など大事で、その意味では悪くなかっ 絵画の模写もそうで、たんなるの色を合わせたらどういう色にな一緒です。つねによりよいものを、と自分で考え続けることこそが重要だと思うのです。 僕は29歳でシェフになりましたが、自分が失敗したことから修正も行きました。料理書もよく読みと思いたってからは、『レペルトワで学んだりしました。次の配属先は、名古屋のレストHII Iぎで    取材・文/猪俣幸子 撮影/日置武晴861953年三重県生まれ。79年に渡欧し、フランス・アルザス地方やスイスのレストラン、パリ「ジャン・ミエ」「モデュイ」「ペルティエ」などで修業。82年に帰国し、愛知・名古屋や東京・代官山の人気店のシェフを務める。92年に神戸・北野で独立開業し、2002年に東京・京橋に移転。1991年のクープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリーではリーダーを務め、優勝を果たす。『イデミスギノ 進化する菓子』(柴田書店刊)など著書多数。

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