新版 そば打ち教本
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約1万2000分の1の道路地図。東海道五十三次がかなり正確に描かれ、宿場、立場の茶屋で扱う麺類など食べ物の記載がある。左の図は神奈川あたり。ムギが略してソバと呼ばれるようになるのは、室町時代後期頃のことと考えられている。そば切りの製法を記した最初の記録は、寛永●東海道分間絵図図ず』になると、うどんとそば切りの立場が逆転し、この書の成立は慶長年間(₁₅₉₆〜₁₆₁₅)にまで遡る可能性もあるそうだ。記述は大変具体的で、飯の取り湯やぬるま湯などでこねて蒸して仕上げるとあるが、つなぎの小麦粉には触れていない(第8章参照)。また、そばに用いる汁と薬味についても書かれている(第9章、第10章参照)。寛永19年の御触書などによれば、当時すでに各地の農村などで、うどんや切麦(切麺)とともにそば切りが売買されていたが、たんなる売買で麺類店があったわけではないらしい。麺類を食べさせる飲食店としては、万治年間(₁₆₅₈〜61)の『東海道名所記』が街道筋の茶屋を紹介している。ただ、いずれも「うどん・そばきり」とまだうどんが先に書かれているが、元禄3年(₁₆₉₀)刊『東と海か道ど分ぶ間け絵えする。東海道の宿場、立場の茶屋28カ所のうち、そば切りを看板にする店が20カ所、うどん・そば切りが6カ所、うどん、そうめんが各1カ所と、そば切りのみを売る店が圧倒的になっている。江戸の町中では、早い時期からうどん屋が営業していたと考えられるが、店売りのそばの最初は、寛文4年(₁₆₆₄)頃に吉原に現れた「けんどんそば切り」とされる。寛永年間に浅草で正直蕎麦というそば屋が創業したという説もあるが、この説には、江戸時代から異論がある。売り出したそば切りの名で、安価であることを、当時の安女郎・喧け嘩ど女じ郎ろになぞらえて名づけられたと伝えられる。その後、麺類や飯、酒などを一杯盛り切りで売る店を「けんどん屋」と呼ぶようになった。延宝年間(₁₆73〜81)頃には、京・四条河原にもあったという。けんどんにはさまざまな字が当てられてきたが、現在は「慳貪」が定着している。      ょんんう    うちいんういうんん だったため当初は約30文と高価だったが、たちまち人気となって世間に広まったせいか、わずか4年ほど後の寛文8年には8文が相場になっていた。と、けんどんそば切りに代わって「蒸しそば切り」が流行るようになるが、これは上方でも流行ったようで、井原西鶴の『好こ色し一い代だ女おな』(貞享3年刊)にも美食好みの女の好物として大坂の蒸しそばが出てくる。茹でてから蒸して仕上げるとしている。おそらく、けんどんそば切りもこの製法だったが、蒸しそば切りとあえて名乗ったのは、湯通しせずに蒸籠で蒸したためといわれる。そば屋ができる前の江戸時代の初期には、菓子屋がそばを作っていたが、菓子屋は饅頭などの蒸し物を扱う。けんどんそば切りは、吉原にあった麺類屋がけんどんそば切りは、吉原という特殊な立地延宝から貞享年間(₁₆₈₄〜88)頃になるところで『料理物語』では、そばはいったんょく江戸時代初期のそば切り20年(₁₆₄₃)版『料理物語』である。ただ125

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