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2013年11月25日

料理本のソムリエ [vol.62]

【 vol.62】

オムライスと制服のメイドさんは
西洋をまとった日本なのだ

 朝ドラでは、チキンライスをオムレツで包んでケチャップをかけたオムライスは、明治44年にめ以子のお父さんが発明したことになってましたね。今回これに異議申し立てを行なうと皆さん期待されていたかもしれませんが、いい大人ですからね、ドラマと現実が違うことくらい、知っていますよお。実在の人物、料理とは一切関係ありません。

 実際には銀座の「煉瓦亭」で明治30年代に誕生したとする説と、大阪の「北極星」の前身である「パンヤの食堂」で北橋茂男氏が大正14(1925)年に発明したとする説があるそうですが、何をもってオムライスの完成と言っていいのかがよくわからないので、どっちにも軍配は上げられない、というのが正直なところです。

 まず煉瓦亭が生んだ明治時代のオムライスですが、これはご飯と卵を一緒に炒めるような料理だったそうで、今のオムライスとはちょっと違います。ご飯はオムレツの具の扱い。『週刊現代』1997年4月5日号の「グルメ・スペシャル オムライスからカツ丼まで「元祖」の名店」に載っていた煉瓦亭3代目主人の談話によると、元はまかない食だったこの料理が明治33(1900)年にメニューに取り入れられたときは、上にケチャップこそかけていたものの、ご飯は白かったそうです。その後、明治35年にピラフ入りの改良型になったとのことですが、このピラフがトマト味だかどうかは書いてありませんでした。

 一方北橋氏の発明譚は、柔らかいオムレツとご飯をセットで必ず注文する胃の悪い常連さんのために、わざわざ二皿別々に注文しなくても一度に食べられるような料理を発明したっていう話なんですが、先の週刊現代には出てきませんでした。『サライ』1999年6月3日号「ハヤシライスとオムライスの謎」にはあったのですが、大正11年に発明して、14年からメニューにのせたとある。かと思えば、『dancyu』1992年10月号(ABC朝日放送時代の宮根誠司がオムライスの作り方を教わっておりました)では、誕生したのは大正13年頃とあります。どうもよくわかりません。北橋氏の著書『幸福は食べ物によって左右される』を見ていても、卵は血液がアルカリ性になるから身体によくないという話はあっても、オムライスにはまったくふれておりませんし。まあネット上では大正11年説も13年説も見当たらないので、14年っていうことにしておきましょう。

shina_seiyouryori.jpg やっぱり赤ーいトマト味のチキンライスやハムライスをオムレツでくるんでこそのオムライス。チキンライスを使ったオムライスの初出文献については、例の小菅桂子氏が『にっぽん洋食物語』で、『家庭料理法大全』だと紹介しています(ちなみに煉瓦亭のオムライスの話もでてきます)。これに対してつい先日出版された『ニッポン定番メニュー事始め』という本の中で、澁川祐子氏は以下のように述べております。

 <現在のようなオムライスが料理書に初登場するのは、一般に1928(昭和3年)発行の『家庭料理大全』だと言われている。では、どうせなら大正から昭和初期にかけての料理本を実際に当たってみよう。
 手当たり次第、西洋料理を紹介する家庭料理本の目次をめくる。そこで発見できたのが、1926(大正15)年発行の『手軽においしく誰にも出来る支那料理と西洋料理』。通説より2年ほど早い。「オムライス(卵と肉の飯)」とその名も正しく紹介されていた。材料は、鶏卵、牛肉、グリーンピース、タマネギ、トマトソース、塩、胡椒、牛脂であるヘット、ごはん。牛肉なのでチキンライスではないが、トマトソースを使っているところがポイントだ。作り方は、あらかじめ卵以外の材料を炒め、焼飯を作る。別のフライパンで、卵を薄く大きく焼く。
 <焼けたならば拵らへ置きたる炒飯(いりめし)を一人前位宛(ずつ)入れ、卵の周囲を箸にて折込み、フライパンに皿を當(あて)がひ、ポンと返しますと、丁度卵で包んだ様に皿に盛れます>
 まさに現在、料理本に載っている作り方と同じだ。最後には<スプーンをつけて供します>とあり、食べ方の指導が必要なくらい目新しい食べものだったことがよく表れている。>

 澁川氏のこの本、小菅桂子氏や岡田哲氏の洋食起源本と比べればかなりまとも。料理を専門としているライターさんではないにもかかわらず、頑張って調べているなあ、という印象です。ただ残念なことにどれもこれもが、テーセツだのツーセツだのを出発点に調べ始めて、それがどうやらまちがってるらしいってことがわかったところでめでたしめでたし、おしまい。惜しいねえ。そっから先が面白いのにもったいない、という印象です。そもそも、まちがってないほうが珍しいんだってば(笑)。

 このオムライスの一件も、なぜか『家庭料理大全』というタイトルで覚えちゃったせいか、昭和3年刊の『家庭料理法大全』自体はご覧にならなかったようです。こちらの本の著者も『手軽においしく誰にも出来る支那料理と西洋料理』とおんなじ小林定美なんですよ。

<フライパンをよく拭って、ヘットを一面に敷き、強火にかけて、そこへ攪き混ぜた卵を入れ、薄くフライパン一面に焼きます、一寸火から外して、炒り飯を丁度包める丈け卵の上に載せ、四方から卵と攪き寄せるやうに致しまして、(この場合決して、飯を包み切らなくともよろしい、只卵はほんの周囲の格好を作る為に攪き寄せるのですから)再び火にかけて一寸焼き、皿をフライパンにかぶせて、反対にフライパンを起します、すつかり卵で包まつたご飯が上手く皿に受かります>

muryoken.jpg 『家庭料理法大全』ではグリーンピースを使うのをやめて、より詳しく、誰でも作れるように配慮していますね。小林定美は自分のレシピを再構成して似たような本をいろんな出版社から出しております。うーん、商売上手の出版社泣かせ。たとえば同じ昭和3年に『一年中朝昼晩のお惣菜と支那、西洋料理の拵へ方』という本も出しているのですが、こっちのオムライスは『手軽においしく誰にも出来る…』とおんなじレシピです。

 それにしても1925年に大阪で北橋氏が発明した翌年には、もう東京で活字化されているとは。そんなに短期間でパクられるほど北橋式オムライスは世に広まっていたのでしょうか。当時の人は小林がオムライスの発明者と思わなかったのか、ちょっと心配になっちゃいました。小林は大日本家庭料理協会を主宰しておりまして、著作は多いし、巻末には質問券をくっつけておりまして、発信力があるしなあ。

 ちなみに小林定美は和洋中なんでもござれで、鶏のマレンゴ風のような素敵なフランス料理ではなく、現在あるような折衷家庭料理の普及を推し進めた一人。新聞、雑誌と活躍しますが、昭和5年に忽然と姿を消し……おっと、この話はラーメンの回のときにでも。

 ただし小林式レシピにはトマトソースはでてきても、ケチャップを使うとはありませんでした。北橋氏がオムライスの発明者というのは、画竜点睛、ケチャップを使ったチキンライスと組み合せたことを指すのかもしれませんね。

 さて、同じ大正14年。『改造』4月号には童謡作家のサトウハチローがこんな文章を書いています。

<こゝは西洋料理店です。豚もあります。ほんとうの牛肉もあります。夏にはおいしい生ビールも呑ませてくれます。さて、ひよつとこの話しで食べに行きたくなる読者諸君の為に伝四郎の店をくわしくいふなら、浅草広小路の露天飲食の田原町の方から数へて十何軒目の母子(おやこ)軒と染めてある暖簾がそれです。(…略…)伝四郎の暖簾の中に帰つて来ると貞チンは酒をやめて飯を食つてゐます。伝四郎得意のオムライス――卵焼の中に飯の這入ったもの、その名を笑ふ勿れ>

 生ビールも出すちょっと変わった屋台の店主の名は、サトウハチロー曰く「御前試合の遺恨から闇討を食わして逐電した敵役」みたいな橋口伝四郎。どうせなら「父子軒」のほうが侍っぽいのに、なぜ母子? 伝四郎のお母さんが手伝ってたんですかねえ。橋口氏が作っていたオムライスは卵焼きにご飯が混ざっているタイプなのかくるんであるタイプなのか、ご飯は白いのかチキンライスなのか、この文章からはわかりませんが、銀座だけでなく浅草の屋台でも「オムライス」という料理が売られていたのは確かなようです。

moukarumenu.jpg ちなみに伝四郎の子でも母でもないサトウハチローですが、この記事を執筆する3年前の19歳のときに、母子軒で何度もツケで食事をしたあげく、アルバイトをしておりました。生ビールのポンプを押したり、皿を洗ったり、キャベツの上に紅生姜をパラパラまいたりしているうちに、カツと“玉三肉二”くらいは揚げられるようになったと『ぼくは浅草の不良少年 実録サトウハチロー伝』にあります。“玉三肉二”って何だろうと思って原典を探したところ、タマネギと肉を交互に(タマネギが3なのは外側にくるからです)刺したものと説明されていました。肉フライってやつですね。

 このアルバイトの件は、昭和11年に朝日新聞東京版の連載をまとめた『僕の東京地図』にも出てきます。この本は、全体の3分の2ほどですが復刻もされておりまして、原本ではあっちこっちへ飛び回っていた文章を、浅草なら浅草、上野なら上野と地域別にまとめて編集し直しているので、当時をしのんで脳内お散歩するのにちょっと便利な造り。復刻の企画段階ではグルメ探訪を意図していたそうで、そっちの話題も豊富です。それも菓子や屋台など庶民的な店がたくさん出てまいります。

 さっきの『ニッポン定番メニュー事始め』では、戦後の闇市でソース焼きそばが誕生したとかいうテーセツに異議を唱えまして、昭和10年代にお好み焼屋の店内で生まれたという仮説を立てておりますが、証拠にまでは迫りきれていませんでした。残念、いい線ついてるのに。この本を読めばちゃんと出てきます。

 <ヤキソバ同じく五銭なるものがうまい。ソバを鉄板で、いため焼きにして、キャベツのみじん切りと、ジャガ薯(いも)のサイノメが混じっているのだ。ソースの香りにむせびながら食うとよろしい>

 このヤキソバの店も屋台でして、向島のお風呂屋さんの前に陣取って、風呂上りのお客さん相手にご商売しておりました。お好み焼も出しますが、ポテトフライにロールキャベツ、カツレツも作っていたとのこと。一方浅草公園の章には、ヤキソバではありませんが、モチ天、キャベツボール、パンカツなんていう、サトウハチローもちょっと判断に苦しむものを売っていたお好み焼の屋台「御笑楽」が登場します。お好み焼は戦後生まれなんていうツーセツを信じている人たちの想像を絶していますねえ。

 中国料理の炒麺をウスターソースで作っちゃったのがソース焼きそばなら、洋食の定番のオムレツとなんちゃって洋食だったチキンライスをえいやっと一皿でドッキングさせたのがオムライス。なんだかカツカレーみたいですね。そういえばカツカレーも浅草の屋台店が起源と言われております(vol30 参照)。『僕の東京地図』には、銀座の松坂屋の横の屋台「青葉亭」では、カツ丼の兄貴分みたいな「オムカツライス」を出していたとありました。現在見るようなオムライスは屋台文化の中から生まれた可能性は高いと思います。

 例の北橋氏も大正11年に23歳で起業した時は、大阪の西区幸町で奥さんにパン屋をやらせて、自分は一銭洋食(これまたお好み焼のルーツですね)の屋台を引いていました。屋台がはかばかしくいかなかったので、のちにテーブル3つ椅子7つを買って、間口二間のパン屋の半分を仕切って安洋食屋を始めたのです。それでパンヤの食堂っていうわけ。一皿の料金が均一の料金体系だったので、二皿に分けて出すよりも一つにまとめたほうが常連さんへのサービスになったんですね。

omusubi.jpg それならカレーとオムレツは仲良くくっついたりしなかったのかしらと思ったら、これまた1925年刊、秋穂敬子著『美味しく廉く手軽に出来る日本支那西洋家庭料理』に、オムレツト・インデアンというのがありました。カレーソースにご飯を混ぜて、広げたオムレツの上に盛って、柏餅のようにくるむとあります。柏餅っていうのが言いえて妙。そういえばコンビニでは、チキンライスをオムレツでくるんだ丸い「オムすび」が売ってますよね。オムライスの和風志向もここまで来たかと驚くやら、感心するやら。

 ところで日本オリジナルといえば、カゴメの社史を見ていて驚いたのは、昭和33(1958)年発売のアルミチューブ入りトマトケチャップ。細長い絵具みたいな形です。ここからケチャップがにゅるりと出てくることを想像するとちょっと楽しい。今見られるようなソフトビニール製のボトルは昭和41(1966)年登場とありまして、意外に新しいですね。このタイプの容器はマヨネーズのほうが先行していましたが、ケチャップでは酸素が透過すると変色するので開発に苦労したようです。海外ではマヨネーズはビン入りですし、ハインツのケチャップはひっくり返して立てて置ける固いプラスチックボトル入り。ホットドック店用はともかくとして、家庭用の搾り出せるボトルっていうのは日本独特の模様です。

 秋葉原のメイド服(これまたイギリスのメイド文化にあこがれてアレンジしたものですね)姿の娘さんが、オムライスにケチャップでちゅるちゅる字を書くっていうのは、まさに日本文化の極みなのですね。メイドカフェのオムライスは外国からの観光客の皆さんに喜ばれるっていうのもなんとなくわかりますね。

  
 

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投稿者 webmaster : 2013年11月25日 18:00