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2012年05月02日

料理本のソムリエ [vol.42]

【 vol.42 】
おでん大好き松崎天民

 さて今回は下町独特のおでん種の話題にかこつけて、公園前のおでん屋台で一番安いボールとウインナーばかり買い食いしてた幼き日の思い出や、給食におでん茶飯が初めて出てきた時の驚きをとうとうと語って、昭和気分にたっぷり浸る気満々でいましたが、あんまりしつこいので自重します。なんだかおでん伝道師と思われかねないし…って、これまた前に見たことのある展開。いよいよぼけたかな? すみませんもうしません。ちょっと我慢してもう1回だけおでんの話にお付き合いください。同じ昭和でも戦前の話です。

 前回紹介した『日本全国おでん物語』で新井由己氏は、江戸時代創業の大阪の「たこ梅」や明治16年創業の京都の「蛸長」などのだしは鰹節で昆布を使わないこと、関西の家庭でも鰹だしで甘辛の関東煮を作る人が多いことなどから、鰹だし濃口の関東風・昆布だし淡口の関西風というおでんの区分は当てはまらないのではと疑問を呈しています。そこで江戸・明治・大正・昭和のそれぞれの時代に特徴的なおでんが存在していたという仮説を立て、昭和4年創業の銀座の「一平」がおでんを“飲めるスープに改良した”という家伝を紹介して、同店がおでんブームに火をつけて、現在のスタンダードの味を作ったと解釈しておられます。これについては半分賛成ですが、同時代資料の裏づけがほしいところですね。一平の改良が創業時からだったのか、当時画期的だったのかがわかりませんから。

 というのも、グルメガイド本の嚆矢である白木正光の『東京名物食べある記』(これは昭和4年版、タイトルをちょっと変えた『大東京うまいもの食べある記』8年、10年版があります)ほか昭和初めのガイドをいくつか見たのですが、それらしい指摘が見当たらないのです。昭和8年版に「一平」銀座店の紹介がありまして、岡本一平の名にちなんで彼の大幅がかかっているとか、一平揚、一平焼なんてのもあるとか、家族連れが多くて新婚早々のカップルが食べにきているとかあるものの、飲めるスープかどうかについては触れられておりませんでした。かたや<スープ煮の関西おでんととんかつで売出した「多助」>なる店がイラスト入りで紹介されていまして、どうやらこの時代、スープ煮のおでんは登場しているようです。

tabearuki.jpg それでは東京・大阪のどちらのおでんにも精通していた人は、東西の違いをどう感じていて、一平のおでんをどう評していたのでしょう。その適任者は、昭和初めのグルメ雑誌「食道楽」主幹である松崎天民。『大阪食べある記』と『東京食べある記』の2冊のグルメガイドを昭和5年12月・翌年1月と立て続けに上梓しております。しかしこの中には一平どころかスープ煮に関する記述はなく、本場東京のおでんに限るとも、逆に関東煮に軍配が上がるとも書かれておりませんでした。松崎天民は岡山出身で関東の味にはかなり厳しい人なのですが、大阪法善寺の「正弁丹吾」では<謂ふ所の関東煮の風味の、とても水ッぽく甘いのに失望した>なんて書いております。もっとも同店の名誉のために付け加えますと<あの竹の串にさしたおでん其のものには、無条件に降伏しなかったけれども、酒の美味いことには飛上るほど随喜した>そうでして、<少し熱燗に過ぎるけれども、おでんの鍋の前に立つて、赤貝や、バカ貝や、まぐろなどの小串を肴に、一杯二杯と傾ける気分は、大阪ならではの心地がした>と語っております。

 ちなみにこの2冊、今の誠文堂新光社の前身である誠文堂が発行した実用書シリーズで、1冊10銭という安さが売り物です。大きさは87×148mmで今の文庫をさらに2cmくらいスリムにした手帳サイズでして、なかなかモダンなデザインですね。『東京食べある記』は、コレクション・モダン都市文化のシリーズの『グルメ案内記』に『大東京うまい物食べある記 昭和八年版』ともども収録されておりますし、『京阪…』のほうは『大阪のモダニズム』に収録されておりますので、ご関心のある向きはどうぞ。もっともこのサイズからA5版に拡大して復刻しているので、文字がかすれているうえにずっしり重たくてちょっとしんどいです。

 グルメ気取りの天民はおでんにあんまり興味がないから、世のおでん屋さんがスープ煮かどうかなんてどうでもよかったのでしょうか。いやいやそれどころか彼こそは、私なんぞは足元にもおよばぬおでん伝道師であります。前々回紹介した『浅草底流記』では「舎人屋」の説明に続いてこんなふうに書かれております。

<いつか天民と一緒にこの屋台にかかったことがある。二人とも幾軒ものカフエーを飲み食ひして廻ったあげくの果てだのに、彼はうまいうまいと言つて茶めしを七杯まで、それも、まるで蟇(がま)が羽虫でも吸ひ込むやうにパクリ込んで曰く、「今夜はこれでいつもより少ない」と>

 それでは舎人屋は『東京食べある記』でべたぼめされているかというとさにあらず。屋台店では銀座松屋横の「山平」など広小路のちん屋の前の「壽」だのを挙げているのに、浅草の舎人屋には触れておりません。彼のおでんの合格ラインはかなり高そうです。

 実は天民は東京朝日新聞勤務時代におでんに関するコラムを書いております。1912年3月15日の朝刊ですからちょうど100年前ですね。

<…梅はポツポツ散り初(そ)めて、桜に早い十三日、天公何を憤(いか)ってか時ならぬもの降らしたり、地は白砂の銀世界とまでは化(な)らずとも、斯(か)かる夜ぞおでん屋は大繁盛▲お手軽西洋料理の屋台店増加して、江戸前の握り加減、山葵の利き塩梅を誇りとした鮨店は、大分その姿を没したが、代つてメキメキと殖(ふ)えて来たは、飲むにも食ふにも払うにも、万事お手軽で宜いと云ふおでん店、右党にも左利きにも>

 実に気持ちよさそうな名調子で、天民の面目躍如といったところですなあ。屋台のほかにもおでんの暖簾を掲げる小料理が増えてきたことや、夏は氷屋、冬はおでん屋に早替わりする店など、すべてを紹介したいところですが、それで終わってしまうのでつまみ食い。

<▲洋服を着た勤め人でも、印半纏着た労働者でも、おでんを好むに於いて同等なり、今より十年前までは礼服で山高帽で、おでんの八ツ頭でも頬張つて御覧あれ、忽ち近所界隈道行く人に、四の五のと取沙汰されたが、今は文明の有りがたさ>

<▲印半纏の兄い、安洋服の腰弁に隣して、紳士級に位すべき鼻髯の連中が、チビリチビリと遣(や)っている図は、正に日本の首都東京に於いてのみ、今日にして見られる光景なり、おでん決して卑しむべからず、おでん屋の商、決して軽蔑すべからず>

 当時の人々のちょっと屈折したおでん観がうかがえて面白いですね。まあ、日本料理店が払い下げた残り汁なんかを使っていれば当たり前ですが。礼服でおでん片手にご満悦ってのは現代でもちょっと違和感ありますが、この時代の園遊会では立ち食いできるということでおでんの模擬店が登場し始めています。お座敷おでんなんてのも現れまして、かつて下等な食べものと思われてきたおでんの地位がぐんぐん上昇してきた明治の末の空気を示す貴重な証言です。

 夜討ち朝駆け、日に夜を継いで働く新聞社社員にとって、深夜営業の屋台のおでんはありがたい存在でした。vol24の花の茶屋の回でもちょっと顔を出しました『おでんの話』によると、都新聞勤務時代の天民は(彼は大阪新報を皮切りに複数の新聞社を渡り歩いています)、夜の編集作業の合間に数寄屋橋の屋台「富可川」で1杯8銭か10銭の深川飯に舌つづみを打ったそうです(のちに屋台から小料理店まで成長したこの店、深川めしが名物だから「ふかがわ」っていう店名なわけ)。記者時代の苦労をともにしたおでんは天民にとって、美食云々以前に、思い出の詰まった料理だったわけです。

 さてこの小冊子『おでんの話』ですが、大正6年創業のおでん屋「富可川本店」主人の井上忠治郎(井上太四郎の親戚ではないですよ)が、昭和7年1月1日に店の15周年誌として出版したもの。もっとも井上両人は友達同士で、太四郎が発行した『弁当の話』にインスパイアされてこの本の発行を思い立ったようです。園遊会出店用の自家用車(ケータリングカーの走り?)や店の内装など、貴重な写真も載っていて興味深いです。天民の“「街頭味覚」の王者”はトリを務めております。

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<東京生活二十五年―空しく風塵に老を重ねて来たけれども、私の東京に於る味覚生活のスタートは、実におでん茶飯の屋台店であつた>

<星ヶ岡茶寮の珍味怪味に、一人前七八円、十円を惜しむ貧しい私は、四五十銭にして美味に満腹し得るおでんを探ねて、如何にこの歳月を、舌つづみを打つて来たことであらう>

 ほかにも太四郎や林春隆など、忠治郎の友人たちが文を寄せておりますが、中に日本料理研究会初代会長の三宅孤軒による貴重な証言があります。

<処(ところ)で、関西の「関東煮」と東京のおでんとは煮込む具合も、客に出し方も違つてゐたが近頃東京のおでんやは、段々上方式の鍋を使つて来た、だぶだぶと汁沢山の中に、種が浮いてゐるやうな煮方になつて。純東京式の方は、少なくなつて来たやうだ>

<鍋の中の煮つまる具合を見て、汁を加え、その次に鰹節を入れる、あの東京式の煮方の方が、おでん本来の味をよく出すと思ふが、それをしない店が多くなつたのは、翌日に持ち越した時に、品物の色が悪くなるのと、汁が濁つて困るからだそうだ>

 日本料理研究会は関西料理の東漸に対抗する形で発足した団体ですから、関西式のおでんに対する目は厳しいですが、道具や調理法に言及しているのはさすがというばかり。確かに昭和の初めにたっぷりの煮汁で煮るおでんが広まり始めたようですが、これはどうも調理法としては後ろ向きな姿勢で、おでん好きが感心するものではなかったのかもしれません。それであまりグルメガイドでは積極的に触れられていなかったのでしょうか。今のような味になるには、さらなる改良が必要だったのか。おでんの進化の過程は一般に思われているように簡単ではなさそうです。

 なお、『カフェー考現学』(これも著作選集で復刻されています)の作者であり、大阪毎日新聞を舞台に繁華街や貧民窟の社会探訪記事をものした村嶋歸之も、学生時代におでんに関する一文を雑誌に寄稿しております。こちらは復刻されていないのが残念。

<寒月雲より出で、行人の影法師地に印して明かに、下駄の音高く寒空に冴え返る大路の夜、吾れは四辻のおでん屋に立つの趣味を解す>

 天民のコラムの翌年に書かれた文章にしては大時代的。まだ早稲田大の学生で、若書きの文章ですから、ちょっと気負っておりますね。

<本郷の一高屋は、名の如く夜毎に集う白線帽の一高生多く、彼等は茲に酒抜きのおでんを喰うて腹を作り、デカンシヨンを高唱して本郷街に横行濶歩す。城北早稲田の近在にも多くのおでん屋あり。就中(なかんずく)神楽坂上のおでん屋は最も美味也。されど独り三田には多くのレストラントとカツフエーあれど未だ一軒のおでん屋を見ず。可惜(おしむべし)三田の健児、此の美味なる御芋の煮えたをお存じ無き也>

 早稲田の学生が慶応を揶揄しているのでちょっと割り引く必要がありそうですが、大正時代の学生とおでんの関係を示した生の証言で、これまたちょっと面白いですね。そういえば古本屋も本郷や早稲田には並んでおりますが、三田にはまったく見当たりません。これも同じ理由からなのでしょうか。

nonki.jpg なんだか本郷の古本屋、もといおでんやに行きたくなってまいりました。東大前の「呑喜」は明治20年創業で、汁たっぷりで煮た「改良おでん」で人気を博したそうです。
こっちの改良おでんは創業時からなんでしょうか?
昭和のスープ煮おでんの先駆けだったのでしょうか?
今日はGWの中日で白山通りもあんまり混んでないし、東大構内の新緑もきれいだし、湯島からちょっと足をのばしてみましょうか。

  
 

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投稿者 webmaster : 2012年05月02日 12:27