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2012年03月16日

料理本のソムリエ [vol.40]

【 vol.40 】
関東大震災がおでんにもたらしたもの

 前回、関西炊き出し隊が東京に関西風おでんブームをおこしただの、江戸から伝わる味の店が失われたために関西風の味つけのおでんが東京を席捲しただのといった、寝ぼけたWikipediaの記事を一笑に付しました。そしたらね、アップしたその日のうちに炊き出し隊の一件が、「関東大震災(1923年)の時、関西の職人の行き来があり、関西風のおでんが関東に逆輸入されていった」という文章に変わっておりましたよ。Wikiの唯一よいところは、修正の履歴が残っていて、直した全過程が追いかけられること。vol39の批判を見てあわてて書き換えたのかしら? いやいや、このブログは読者の方々もご存知の通り、最果ての地の隠れ家ブログですから(会員制でも看板を出していないわけでもないのにね)偶然でしょうね。「かんとうふ煮」の一件は直ってませんでしたし。

 修正後はだいぶましになりましたが、それでも及第点はあげられません。直すにあたって紀文食品のHPを参考にされたようですが、そちらでは「時代は大正に入り、東京と大阪の2つのタイプが出会い、おでんがさらに進化するのは、大正12(1923)年の関東大震災で、東西の料理人の行き来がきっかけです」とたくみにぼかした表現なんですよ。それがWikiの書き込みではずいぶん断定的に変わっているうえに、「東西の料理人」が「関西の職人」に劣化コピーされちゃってます。後になるほど研究成果が積み上がって進歩するどころか、引用すればするほどだめになっていくよい見本です。

 料理界における「職人」という言葉は、本来は日本料理や寿司、鰻、てんぷらなどの調理師会に所属している雇われの料理人たちのことで、特定の集団を指す専門用語。「職人」という響きにブルーカラーに対する職業差別的な含みがあった時代においても、誇りを持って自称としても使われてきた言葉であり、「主人」と対になるものです(もちろん「職人あがり」のオーナー料理店もありますが、それはそれ)。それなのに、グルメ記者の方々がこだわりのナンタラや一子相伝のカンタラと同じ安直なほめ言葉のニュアンスで使うようになって、わけがわからなくなっています。「そば職人」なんてのも見かけますが、そばの世界にもかつては調理師会があったので、誤解を招くから避けたほうがいいでしょう。「ラーメン職人」にいたっては、たいがいにしたほうがよろしい。

inagaki.jpg 前にも書きましたように、当時のおでんは屋台の店が主流ですから素人が参入しやすいし、作る人も売る人も資金を出す人も一緒ですから「職人」なんて概念からはほど遠いのです。
 もちろんだからといって、今のおでんまでもが誰でも作れる簡単な料理だと言っているわけではないですよ。むしろ最近は料理店で修業した人がおでん屋さんを始めたり、ひとつの店で各地のだしが味わえたりと、ますます進化しています。ただ、スタートはそうじゃなかったということを頭に入れておいてもらわないと。そもそも日本人って、てんぷらにしてもそばうどんにしてもすしにしても、簡単なスナックのような料理を練り上げて、完成度を上げていくのが好きな国民性ですよね。

 100年前のおでんはどこで誰が食べるどんな料理だったのか。明治33年の職業案内『如何にして生活すべき乎』によると、屋台のおでんは「職人、車夫、人足が主たる得意」であり、仕入れ値が5厘のがんもどきは1銭に、4厘のコンニャクは2つに切って1銭に、里芋大100個50銭は200本の串に刺して1本を5厘に、という具合。蒲鉾、ちくわ、はんぺん、焼き豆腐は原価の倍、燗酒と茶飯の利益は1割5分。一晩の売り上げはおでん2円40銭から50銭(利益1円25銭)、酒と茶飯は1円40銭から50銭(利益23銭)。煮汁と光熱費は売り上げの1割を占め、仮に月に20日営業(雨風の日はお休み)とすると、21円60銭が月収となるそうです。ただしこの煮汁の調達法、おっそろしいことに大料理屋から買うとありまして(鍋の残りか?残り汁なのか?)、大阪風とか吸いきれる味加減とかいう以前の問題であります。イニシャルコストはどうなっているかといいますと、屋台や道具一式を貸し出す損料貸がおりまして、月に3円から4円で借りられるそうです。

 続いて明治36年の『実験苦学案内』。これは大阪の出版社から出た本なのですが、おでん屋の説明に「東京には専ら行なわれて居って」というくだりがありました。つまり大阪ではまださほどポピュラーではなかったということでしょうか。一夜の純益は85銭とありますが、これは東京で得たデータなのかな? だいぶ儲けが減りましたねえ。
 それが明治43年の『無資本実行の最新実業成功法』となると「東京にてはおでん燗酒といひ、大阪にては上燗屋といふ、その他の地方にもこの商売は盛んに行はる、而して多くは港のあるところ、職工の多きところにて、何れかといはば下等の労働者が多きところに盛んなるを見るなり」とありまして、関西でも市民権を確立したようです。ただし鍋に入れる具がちょっと東京の出版物と違います。蒟蒻、里芋、蒲鉾、焼き豆腐は同じなのですが、てんぷら(さつま揚げ? それともごぼ天のことですかね)にニンジン、牛肉とあります。人気があるのは蒟蒻と牛肉で、不人気なのは蒲鉾。とはいえ売れ残りの具は細かく刻んで炊き込んで五目めしにするというのですからさすがです。コロやサエズリは入っておりませんが、おでんのほかに鯨汁や牛肉の味噌煮などを売る店も現れて、そちらのほうが顧客も多くて利益もよいとか。一晩に2円98銭の利益を上げるとありまして、「これよりぼろき商売はなきが如し」と満を持してすすめております。

odenya.jpg 一方同じ明治44年に東京で出版された『職業案内全書』では一夜の純益は60銭から70銭とだいぶ低め。明治41年の『小資本営業の秘訣』では80銭だったので、悪化の一途をたどっているように思えます。これは「廓の大門から花降りかかる仲の町、さては新宿、洲崎、品川、乃至は銀座通り、人形町、十軒店、四谷至る所おでん燗の屋台を見ない所のない」という東京のおでん屋の過当競争状態が原因かもしれません。
 なお明治後半の苦学生が糊口をしのぐために屋台を引いた件(今ならアルバイトにはげむところなんでしょうが)については、青弓社ライブラリーの『夜食の文化誌』で触れられています。社会学系の学者さんの料理研究は、資料収集がおざなりで推論空論に走るものが多いなか、こちらはなかなかの力作でお勧めです。

 ちなみに『無資本実行の…』の関西おでん事情の説明中には「関東だき」という呼び名は見当たりません。つゆの味についても詳しい説明はありませんでしたが、煮汁にかかる費用30銭の内訳は醤油、砂糖、鰹等とありまして、甘辛く煮ていそうです。まあ、この資料ひとつだけではなんともいえませんけどねえ、Wiki先生はどうして「逆輸入した」にそんなにこだわるのか。震災前後のおでんの進化の過程を追いかけるには、当時の資料をあたるしかない。化石の研究みたいなもんですね。汁まで吸える薄味のおでんはいつどこで生まれて、どう伝播したのか。そこの検証を怠って、逆輸入も並行輸入もないもんだ。おでん韓国起源説とレベルはどっこいどっこいです。

 それでも紀文食品の東西交流説は、炊き出し説や江戸おでん絶滅説よりは信憑性が高いです。震災に懲りて東京を離れて関西に新天地を求めた人がいたでしょうし、復興特需に惹かれて関西から上京してきた人もいたでしょう。そうした人の移動の中でおでんが大きく変化した可能性は充分ありえます。
 でも炊き出し云々はないよねえ。関東大震災がどんな災害だったのかまるでわかっていないことが丸わかり。その場の思いつきを書き込んで得意がっている馬鹿モノは、誰だか知らないけど廊下でバケツを持って反省するように。

 当時はラジオもありませんから、大正12年9月1日11時28分に何が起きたのか関西の人たちはすぐに知る手だてがありませんでした。電信を使って得た情報で新聞は号外を発行しましたが(ほとんどの新聞社が被災した東京では、しばらく本紙すら発行できませんでした)、トン・ツーで写真なんぞは送れませんから、未曾有の災害が起こったという文字が躍るだけ。東海道本線は不通ですし(箱根のトンネルは崩落し、根府川駅は地すべりで駅ごと列車が海に流され、多くの犠牲者を出しました)、高速はもちろんガソリンスタンドだってない時代ですから自動車で移動することもできません。軍の飛行機や船、さらに信越線を使って北回りで記者たちがおっとり刀で東京入りし、その惨状が写真入りで紙面に掲載されるようになったのは、地震から2日後のことです。のちにそうした写真を使った絵葉書が大ヒットしまして、その乱発ぶりに不謹慎だと批判されたりもいたしました。


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 そうした新聞や写真を見て発奮し、手に手に淡口醤油や牛筋やコロを抱えて関西から炊き出し部隊が出発したんでしょうけど、現地入りしたのはいつの段階の話ですかね。東京で関東だきブームがおきるほどの量を提供したそうですが、練り物や豆腐、コンニャクといった材料は築地で買出ししたんですかね。器は発泡スチロールではあるまいな…。

 私は女学校の生徒たちが炊き出しをしたとか関東からの避難民を関西の人が温かく受け入れたという報道は見たことがありますが、関西炊き出し団の活躍は寡聞にして知りません。やくざや同業者ににらまれなかったろうか心配です。小回りのきく屋台は震災直後にまっ先に復活していましたからね。

 そもそも江戸の味を伝える店が失われたってあなた、立派な什器や家屋の損壊を受けたり、不幸にして女将が亡くなられた料亭ならともかく、屋台でも出せるおでんですよ? それともおでん屋さんばかりが被災して「おでん職人」がみな亡くなったとでも思っているんでしょうか。馬鹿馬鹿しい。店がつぶれて腕をふるう場所がいったん消えたとしても、必ずや復活します。たとえどんな形であったとしても。

 地震から3カ月後の12月1日の東京朝日新聞は、「一朝にして下町が焦土に帰した時灰の中から起ち上がって商売の第一声をあげたものは大道の露天商人であった。中には罹災者もあろうが自らの労力と少しばかりの資本を基にして彼等は震災直後おでん屋、すいとん屋、水菓子屋として市民の目前に現れ…」と報じており、指定地や慣行地の外にまではみ出して増えた露天商人の整理が問題になっています。実際、台東区の震災後の区画整理の資料をみていたら、焼け跡の不法占拠者リストの中にちゃっかりおでん屋台がありましたし。あ、もしかしたらこの屋台、大阪からやってきたのかな?

 かつてはWikiの説とは逆に「関東大震災を機に東京から移ったおでん屋が、関東風のおでんを関西に持ち込んだため、従来からあった味噌味の田楽と区別するために関東だきと呼ばれるようになった」という説明が一般的でした(たとえば前回挙げた『セブン‐イレブンおでん部会』はこの説をとっています)。これもまた俗説でして、きちんと資料で立証しなければうかつなことは言えないよなあ、とかねがね思っていたのですが、いつの間にかおでん研究は私の知らない次元の高みへと飛翔していたのでした。ああやだやだ。

 確かに関東大震災は風俗史的に時代の大きな潮目となっておりまして、料理に関しても例外ではありません。震災後から支那そば屋が流行るようになった、関西料理が東京に広がった、なんていうのがよく知られています。
 ただしこれらの通説も、「あのころから流行ったぽい」という域を出ておらず、同時代資料できちんと説明されるまでには至っておりません。たとえば震災直後に発行された雑誌や新聞に、最近屋台のワンタン屋が増えたという記事がありましたが、一過性のブームで終わったものなのか(ワンタンの裏メニューで支那そばも出していたというのなら話は別ですが)、料理史の本を見ていてもぜんぜん出てきません。人間の記憶なんてものはいい加減で、震災のショックで何が前からあったのか頭から飛んでしまい、何がその後に起きたのか、混乱したまま語りつがれるということもありえます。

 たとえば震災直後に添田知道が作詞した「復興節」にはこんな詞があります。

 ―― 学校へ行くにもお供を連れたお嬢さんがゆで小豆を開業し アラマ オヤマ
  恥ずかしそうに差し出せば お客が恐縮してお辞儀をして受け取る エーゾ エーゾ
  帝都復興 エーゾ エーゾ

 ゆで小豆や雑煮、汁粉を売る汁粉屋さん(関西でいうぜんざい屋さん)もまた、素人が開業しやすい店ですね。戦前は女性グループが食べに行ける店として圧倒的な人気を誇ったものですが、今の人はほとんど知らないでしょう。

 この復興節、終始底抜けに明るい歌詞と調子でして現代人にはハラハラするような内容ですが、添田の『演歌の明治大正史』によれば、作った本人もおっかなびっくりだったようです。彼は下谷から焼けずにすんだ日暮里へ避難し、急拠刷った唄本の宣伝のために横丁で歌い始めます(当時の演歌というのは、時事ネタを歌にして街頭で歌いあげるものでした)。「夜は暗く死んだように沈みかえっている。そんな中で歌声をあげたりしたら、袋だたきにでもあうのではないか、そんな不安があった。とある横丁でうたいはじめると、たちまち、暗い家々からとび出してきた人々にかこまれた。しかしそれは、不安とは逆な、熱心に聞き入る人々であった」。ちなみに彼は浅草の風俗を活写した『浅草底流記』も書いておりまして、「大衆の食卓 ― 屋台店」の章で、「おでん屋には稀にうまいものもあるが…(略)…何もかも多く駄物屋仕入れである」とし、名店として広小路の「舎人屋」という店をあげています。この店は昭和6年当時で創業25年だそうですから、明治の末からの営業ですね。江戸の味を伝える店が失われ云々に根拠がないのがよくわかります。

 大正14年5月19日の東京朝日新聞では、東京市の統計課の調査を報じておりまして震災後には外食の機会が増えたそうです。料理店が300軒に減少したのに対し、簡易な飲食店は1万2533軒を数え、30戸に1軒、150人に1軒(当時の1戸は5人家族が標準なんですね)の割合だとか。実に震災前の2割増し。その内訳ですが、酒肴めしが2437、西洋料理屋1770、汁粉屋1464、そば屋1374、おでん屋1134、すし屋874、喫茶店832、支那料理466。そば屋におよばないもののすし屋を凌駕しております。関西おでん職人組合の勢力拡大の成果だとしたら、その力たるや恐るべし。それにしても大阪うどんや押しずしの職人は、このとき何をやっていたのでしょう。ふがいない。

 そのほか震災後、店を失った料理店の女将がおでん屋さんを始めたなんて記事もありました。料理屋のノウハウが流れ込んで、おでんが進化した可能性もありますね。大正12年12月に発行された『女が自活するには』は、震災未亡人も含めたご婦人方を読者層として想定した開業本ですが、汁粉屋とともにおでん屋さんも簡単な商売としてすすめております。屋台を借りる方法のほか、銅の胴壷つきの釜を買って(30円くらい)、軒下を少し作り変えれば開業できるとしています。吸いきれる味のおでんの出現は主婦の発明かもしれませんよ。

  
 

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投稿者 webmaster : 2012年03月16日 13:23