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2011年05月18日

料理本のソムリエ [ vol.21 ]

【 vol.21】
言葉で浮かび上がる香りの記憶

 このところ食品の放射能汚染の報道が続いておりますね。キノコ、茶、内陸の魚類…。まあ、前例のチェルノブイリで起きたのとだいたい同じパターンですから、これってきっと“想定内”なんでしょう。生産者へのケアもぬかりなくお願いしたいものです。
 かといって魚の頭と内臓を除いてセシウム量を計測していたのをごまかしだのと言って、鬼の首を取ったように騒ぐのもどうかと思います。頭と内臓が気になるなら(あら煮用かな?)、それはそれで別に分析を要請すればよろしい。というか食材ごとに可食部と平均的な摂取量を勘案して、もう少し細かく基準を設けたほうがよいのではないでしょうか。日常的にたくさん食べる食材もごく少量しか使わない食材も一律で1kgあたり500ベクレルという規制でくくるのは、ちょっと大雑把すぎると思うのです。確実に割を食うのは乾物類でしょう。ドライハーブを1kg使うのはかなり大変だと思うのですが…。

 緩すぎる規制も問題だけれど、かといって風評加害者にはなりたくないので、こんなふうに言葉を選び選びブログを執筆していたら、ここにきて豪胆な発言が飛び出しました。「低線量の放射線はむしろ健康にいい」。東電の顧問さんともなると自らの信念に忠実で一点の曇りもないようです。前回、放射線にはこれ以下なら問題ないという“しきい値”がわかっていないことを説明する際に、「反対する説もあります」とこわごわ注を入れて保身を図った私の小者ぶりに恥じ入りました。追加で説明しておきましょう。
 低線量の放射線が健康によいという「ホルミシス仮説」をあつかった概説書のは、「これでみるみる私も健康になった」的な本が多いのですが、学者がきちんと説明したものとなると文春新書の『“放射能”は怖いのか』あたりでしょうか…。これは、ごく弱い放射線が生物の活性をうながすという説で、植物や昆虫で効果が確認されています。ラドン温泉が身体にいいとされているのと同じ理屈ですね。しきい値なし(LNT仮説)を直線グラフで表すなら、しいち値ありは折れ線に、ホルミシスは図のようにさらに急カーブのグラフとなります。グラフの左のほうであれば発ガン率が上がるどころか、むしろ下がるというわけです。

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 ただしこれもまた仮説でして、どのくらい放射線量が高まると有害に転じるのか、病人や妊婦、乳幼児と健康な大人で違いはないのかといった肝心なところがわかっておりません(温泉でも病気の人や妊婦さんは遠慮していただきますよね)。それで“しきい値なし”という危険性を高く想定した仮説のほうに基づくのが、現在の放射線防護の考え方。君子危うきに近づかず、というスタンスです。レジオネラ菌がどれくらいの個数で肺炎を起こすのかが現時点では不明なので、お風呂の衛生基準は厳しく「不検出」に設定しているのと同じことです。
 さらに困ったことに、せっかくの健康にいい放射線も、原発由来のものは処方量をコントロールできておりません。頼んでもいないお薬が誰彼かまわずサービスで配られているってのもずいぶんな話ですが、お薬手帳をもらった記憶がない。複数のお医者さんに処方されて摂りすぎたりやしませんかね? そもそもホルミシス仮説の熱心な旗振り役は(財)電力中央研究所ですしねえ…。壮大な人体実験につき合わせておきながら、自分は安全な所で利口ぶるのは学者さんの悪い癖です。「郡山の校庭の土なんざ、研究用にうちの敷地に引き取りますよ」とでも言えばいいのにね。
 そういえば青酸カリよりも強い劇薬のニコチンも、ごく少量なら肝臓の代謝を促すそうですよ。「現在放出された放射性物質の危険性はタバコよりもずっと低い」なんて比較の対象にされていますけど、日本パイプクラブ連盟は禁煙ファシズムだと訴えないのでしょうか?

 さてさて前ふりが長くなりましたが、今回は香りについて。 vol.18 の水道水の話の続きです。ミネラルウォーターが人気沸騰中な昨今、ピント外れもいいところですが、前々回を読んで、「え…………、利き水名人の話はあれでおしまい?」「前半分は佐野眞一氏の外食産業取材についてで、利き水名人の話には半分しか割かれていなかったじゃないですか」と思われた方、ご安心ください。
 前田學さんが登場する本は、『鼻学』のほかにもまだあります。まずひとつが『婦人公論』の連載「井戸端会議」をまとめたシリーズ。中央公論新社の単行本『経験を盗め』に収録されております。
 このシリーズは糸井重里氏をホストに鼎談型式に行なわれたもので、お相手は最相葉月氏。小学館ノンフィクション大賞を受賞した『絶対音感』の著者です。音に鋭敏な人が感じる世界と、香りに鋭敏な人の感じる世界を比べ、語り合おうという狙いですね。もっとも、所詮は違う分野なので話があんまりかみ合っていないような気もいたします。ちなみに前田さんによると、蒸留水でご飯を炊くと、米がよければよいほどそのものずばりのふわーっとしたいいにおいがするのだとか。けれども蒸留水が気が抜けたようなまずい味なのと一緒で、食べるとけっしてうまくないそうです。この本は文庫化されておりますが、全3冊あった同シリーズをいったんばらして内容別に『心と体の不思議編』『奥の深い生活・趣味編』『文化を楽しむ編』の3冊に編集し直してあるため、ちょっと注意が必要です。前田さんの鼎談は『心と体の不思議編』に収録されています。

 さてもうひとつは、同じ中央公論から出た『超人へのレッスン』。超人列伝という視点でまとめてあるのがちょっと引っかかりますが、調律士、漁師、旋盤工など10人にそのすぐれた五感について取材したものです。前田さんの談話を一人語り口調でまとめ直してある『鼻学』と違って、この本では著者の質問に対する答えがそのまま収録されています。「採ってきた水を置いておきますと、たとえば〈藻の匂い〉がすぐに〈褐色〉がかった匂いになったり、〈土〉の匂いが〈茶〉の濃くなったような匂いに変わったりする場合、あるいはその匂いが薄くなって〈緑色感〉やいろいろな形で〈緑〉っぽいような色が出てきたり、という変化が起こることがあるんです」といった具合。テープおこししただけのようでわかりにくくはありますが、前田さんの表現法がそのまま収録されているのが興味深いです。紅茶に浸したマドレーヌの香りから幼年時代の記憶について思い出すのとは逆に、特定の言葉に結びついた香りの記憶を思い出しては探りあてているようにも思えます。こちらは中公文庫ではなく徳間書店から、『匠の技 五感の世界を訊く』というおとなしめなタイトルに変えて文庫化されております。

 ところで香りを言葉に表現して記憶する前田さんの手法、これはまさしくワインテイスティングと同じと思われませんか? 
 ソムリエコンテストといえばブラインドテイスティングですが(それはワインを上手にサービスするスキルを磨くためで、こればかりを競っているわけではありませんが)、そんな芸当ができるのも、どの産地のワインがどんな個性を持っているのかをしっかりと記憶しているからです。そのツールの1つとなるのが香りです。ただ「いい香りだなー」では漠然としすぎて頭に残らないので、「フレッシュな果実香」「ミネラル感」「フィニッシュにバニラの香り」などと分析し、イメージすることで、そのワインの個性をはっきりと位置づけることができます。
 ただし前田さんとの大きな違いは、ソムリエたちは香りの表現を他人と共有しており、情報を普遍的なものとしている点です。『超人のレッスン』で、前田さんの上司の小島貞男氏が「彼の使う匂いの表現も我々にはよくわからないですよ。〈緑色感〉とか〈靄(もや)の潤いがある〉とか。共通言語じゃないから困るんです。我々にはない感覚だから仕方ないんですけど」とコメントしているのとは対照的です。前田さんは日本で最初の水質テイスターですし、その能力は飛びぬけているので、この技術を共有したくとも共有できる相手はいなかったのでしょう。

winekisoyougo.jpghorumishisu_1.jpg 一方ソムリエは、同じ香りを同じ言葉で表現することで、ヴィンテージや産地の違いを理解し合えるようにします。試しに『必携 ワイン基礎用語集』を開くと、ずらりと形容表現が並んでいます。洒落や気分で「枯葉」だの「濡れた犬」の香りなどと言っているのではないわけですね。
 そうしたワインの香りの世界の奥深さを解説する本としては、ボルドー大で醸造学を学んだ富永敬俊氏の『アロマパレットで遊ぶ―ワインの香りの七原色』があります。ワインの香りを虹の7色になぞらえて、7つのカテゴリーに分類、整理しようという香りのガイドブックです。フルーティアロマ、ハーベイシャスアロマ…とカタカナだらけなうえに、香り成分などの化学用語も飛び出しますが、ワインの教科書よりわかりやすい。これなら、私も少しはワインの香りが覚えられそう、という気にさせられます。

 ワインの特定の香りを把握することは、その香りはどんな成分に由来するか、その成分を持つブドウはどんな品種なのか、醸造のどの過程で生じるのかといった謎の解明につながります。そうした香りの研究方法や成果の一端は、同じ著者の『きいろの香り ボルドーワインの研究生活と小鳥たち』で紹介されています。こちらはワインの香りの研究に関する6つの話題で構成されておりまして、これまた化学用語がたびたび登場しますが、科学読み物としてもエッセイとしても楽しめます。理系の本らしく索引が充実しているのも好感が持てます。なお、タイトルは色と香りに関する考察について…ではなく、著者が飼っていた小鳥「きいろ」のこと。ソーヴィニオン・ブランの香りのする不思議な小鳥との出会いと別れについては、本書第5章をご参照ください。近頃、科学者と呼ばれる人たちの純粋な思いや熱意を信じられなくなってきた人に、お勧めです。


  
  
  
  

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投稿者 webmaster : 2011年05月18日 12:05